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《第100次元》の建築と《第100次元》の音楽(その2) [キチガイ評論]

全人類史の中で、《近代》というのは、不思議なエネルギーに満ちた時代でした。私自身はこの《近代》について考え続けてきました。それは美術家の視点からではありますが、真面目に探究して来たのです。

アルビン・トフラー著『第三の波』では、全人類史を、農業革命、産業革命、情報革命に、時代区分しています。私はトフラーから大きな影響を受けて、この区分を発展させて来たいます。しかしこういう区分自体が、あまりに簡略過ぎるという批判は、美術評論家の中原佑介氏から受けています。しかし私は中原氏自体が、人類の歴史をトータルに向き合い、理解しようとして来ているようには思えません。私は中原氏の文章を、一時期は98%読んで来た人間です。中原氏も、私という読者を認めて、色々な所で書いたもののコピーを郵送で送って来てくれていた事が5年ほどありました。同様の事は故・中村啓司氏との関係にもあって、同じように郵送で送って来てくれました。二人とも孤独で、真剣な読者という私を大切にしてくれたのです。そういう読者としての視点で、中原氏の私に対する批判は、ことごとく的外れで、中原氏そのものが《近代》という時代の内部にいて、外部を見ていないという視野狭窄に陥っているという風に、私には見えるのでした。同様のことは、高橋堅氏にも言えて、このすぐれて美しい建築を作る建築家が、偏狭に《近代》の内部に自閉した中で、《近代》の内側に陰影のある建築といった、《近代》の外部を密輸することに集中している事の、無理さを感じるのでした。
つまり、《近代》そのものの原理を相対化しない限り今日の問題は解けないのであって、その《近代》の相対化のためには、全人類の歴史という外部への視野に拡大しなければ不可能なのです。



《第100次元》の建築と《第100次元》の音楽 [キチガイ評論]

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《第100次元》の出現というのは、たとえば巨大なホームセンターやイケヤなどの空間に入った時に体感できる《崩壊》感覚なのですが、しかし、このことも多くの人は特に気に留めないのかもしれません。

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現代の高度消費空間なのですが、それを《崩壊》とは、ほとんどの人は感じないのだろうと思います。しかしここでは人間の自給自足のコスモス=秩序は、完膚なきまでに破壊されているのです。そして自分の手でつくる価値というものも、破壊されているのです。人間と人間が貨幣を介在しないで関係を結ぶと言う、古い共同体のありようは崩壊しているのです。まるで社会と言うコスモスは、貨幣を基盤にしているかのような倒錯に至っているのです。


しかし私の考えている事を、性急に伝えようとしても無理なようなのです。私の追いかけているものが、時代の表層ではなくて深層であるからだと思います。

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私は今建って来ているプラモデルのような大建築にも《崩壊》を感じます。しかし建築家の高橋堅さんや松田達さんと話しても、それも賛同を得られるものではないのです。確かに立派に建っている高層の建造物を見て、そこに建築の崩壊を見てしまう彦坂尚嘉の眼が気が狂っているのかもしれません。

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湘南にある巨大モールの場合には、人間味を演出しているせいか《第91次元》なのですが、これにしても伝統的な空間ではありません。高度消費社会の成立がショッピング・モールの中にはあって、多くの人々が、ある意味で大衆の欲望が実現した天国の中にいるように歩いています。ニーチェのいう最後の人間が歩いているかの様です。何でもあるようでいて、そのくせここには高級ブランドはひとつもありません。すべてが大衆用品なのです。大衆と言う最後の人々の至福の天国が出現しているのです。

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こういう《第100次元》性は、音楽にもあります。

今日の表現としての《第100次元》性が出現する早いと私の思う例は、レイブのザ・プロディジーです。活動は1980年代からですが、メジャーデビューしたファーストアルバムは1992年です。



つまり今日の《超次元》から《第100次元》までを持つ音楽というのは、1991年にソヴィエトが崩壊した以降の音楽に見いだされます。ソヴィエトの崩壊からすでに20年をへているので、今日では普通になっている事なのです。

メジャーな音楽で言えばたとえばマライア・キャリーの音楽です。「7オクターブ声域を持つ」と言われたマライア・キャリーのヴォーカルは、今見れば普通の音楽であって、《超次元》から《第100次元》まである音楽と言うほどには、どこといって特徴のあるものではありません。

次の【YouTube画像】は「デビュー直前にNBAFinalで「America the Beautiful」を熱唱し話題になったことから大ブレイクした」とウイキペディアで書いてあるデビュー直前のもののはずです。未確認ですので違うかもしれませんが???、初期の「7オクターブ声域を持つ」という宣伝文句を成立させるような印象的なヴォーカルです。



マライア・キャリー以前の音楽に、《第100次元》までのものを探していくと、1980年代のレイブミュージックに至りつきます。つまりソヴィエトが壊れる前に、先取り的に《第100次元》の音楽が出現しているのです。こうした先駆性というものは、いつの時代にも見られる事なので異常なものではありません。

レイブミュジックというのは、ニューテクノロジーを取り入れたロックで、ニュードラックと結びついてレイブカルチャーと言われたを生み出します。バンドとしてはストーン・ローゼズプライマル・スクリームです。

次の【YouTube画像】であるストーン・ローゼズの音楽を聴いてもらうと、フォークロックのような普通の音楽なのですが、これが《第100次元》だけの音楽なのです。

分かりにくいかもしれませんが、音の進む方向が高い所から落下するように落ちていく形で、音楽が進行していきます。《第100次元》の音楽というのは、彦坂尚嘉的に言うと、そうした落下運動音楽なのです。


次の【YouTube画像】は、プライマル・スクリームの音楽で、ここでも落下するように進行する落下運動音楽が展開します。《第100次元》の音楽というものの新しさというのは、たんなるテクノポップのテクノロジー性ではないのです。むしろ音楽という時間秩序の構造性であって、それが落下運動で音楽を形成するようなものなのです。

 繰り返しますと、音楽というのは時間秩序の芸術なのです。この時間秩序を聞いていかないと、あるいは音楽という時間秩序を見ていかないと、音楽の深層構造が理解できません。
 レイブミュージックというのは、落下運動をする時間構造の音楽なのです。


音楽が、落下性を持っているという事は、なかなか理解してもらえないと思うのですが、それは例えばテリーライリーの『in C』という1964年のミニマルミュージックと比較してもらうと分かるかもしれません。

『in C』は、水平に川が流れるように流れる音楽です。つまりレイブ音楽の落下運動音楽に対して、ミニマルミュージックの『in C』は水平運動音楽なのです。まるでベルトコンベアが流れている様な時間経過の音楽なのです。



そもそも音楽というのは、時間秩序に関わる芸術ですので、『in C』だけがでなくて、この水平に流れる川のようにな秩序というのが、《近代》音楽の大きな構造なのです。その源流をたどるとドビュッシーに至ります。ドビュッシーの音楽は、氷が溶けて水が流れ出す様な音楽で、近代音楽の水平運動性を明確に示しています。



この近代音楽の水平運動が、停止して、停滞するのが1975年のアメリカ/イギリスのベトナム戦争敗戦時の音楽です。この音楽の時間構造性が停滞に入った事を、もっとも象徴的に示したのが、ブライアン・イーノの環境音楽だったのです。彼の中でも1975年のDiscreet Musicが一番このことを示しています。音楽は運動を停止して、停滞運動音楽になって、同じ所に止まり続けていて、貧乏揺すりのような運動の音楽に変貌します。


《停滞運動音楽》というのは、イーノの環境音楽(「アンビエント・ミュージック) だけにあったのではないのです。ここからは理解してもらいにくいと思いますが、この1975年の時期に前後して出てくるパンクミュージックもまた、実は同じ所に止まり続けてジャンプしている様な《停滞運動音楽》なのです。【YouTube画像】としては、まずセックスピストルの画像と、もう一つ当時のライブの記録映像性をもつ「ルード・ボーイ」(1980年)の映画をお見せします。演奏しているのはザ・クラッシュです。聴衆がおなじ場所でジャンプして踊っている様子が、少しですが記録されています。



つまり、《近代》は、氷が融けて水が流れるように
水平運動してくる時間構造なのですが、
1975年になって、アメリカがベトナム戦争に敗れると、時間構造は停滞し、そして1980年代半ばになると、レイブに見られるように、時間構造は落下する運動になっているのです。

音楽を通して時間構造の変化を素描して来ましたが、しかし多くの人は、時間構造の変化について考えてくれてはいないのです。音楽を時間構造として聞く事も、している人は少ないのです。ですから、彦坂尚嘉のこうした興味そのものが、キチガイとして受け取られます。

音楽が時間構造であるとすると、写真や絵画などの美術作品は空間構造なのです。つまり彦坂尚嘉の美術家としての興味は、音楽を通しながら、実は空間構造の変化をとらえようとしています。それはまた建築を見る視点でもあります。建築の変化は、空間構造の変化を体現しているからです。現在の巨大建造物の中に入ると、今日の空間構造が体感できると彦坂尚嘉は考えるのですが、しかし高橋堅さんや、松田達さんたち建築家の人々は、まったくそうした現代人の消費空間の構造的な変容に興味を示してくれないのです。こうして彦坂尚嘉は孤立し、変な事を言うキチガイとして屹立しているのです。

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