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プロテストソング/フォークソングの歴史 [現代音楽]

美術や音楽に思想がないとき、それは単なる娯楽に堕落していってしまうのです

人間が生きることは苦しいことなので、人間にはエンターテイメントが必要で、そのための表現が大衆芸術とか娯楽なのです。普通の意味では民衆音楽というのは、直接性に依拠したエンターテイメントにすぎないのです。なぜにエンターテイメントだけではまずいのか。エンターテイメントというのはパスカルのいうところの「きばらし」であり、「きばらし」といのは、自分自身と向き合うことからの逃亡だからです。

言い換えると、思想とは自分自身と向き合うことなのですが、それはしかしラカン的にいえば迂回し遠回りしてしか可能とはならないのです。それゆえに芸術においても思想は複雑なねじれを見せていくのです。

自分自身からの逃亡として「きばらし」があるとパスカルは『パンセ』の中で書いています。しかし、だからこそまじめな思想を歌うかのような振りをする偽の芸術フォーク=世間体フォークソングもまた、エンターテイメントのデザイン歌謡にすぎないのです。偽の思想を歌う世間体フォークもまた日本のフォークソングには多くて、その偽のまじめさもまた「きばらし」の大衆音楽であって、《真性の芸術》性を欠いているものなのです。このような論法の「悪いフォークソングとしての日本」は正しいのでしょうか。いや、間違っているのです。世界は多様であり、そして日本のフォークソングの現実もまた、実に多様なのです。日本のフォークソングにも、優れて面白く、そして《真性の芸術》である例外的なフォークソングはいくつもあって、その一人が高田渡のフォークソングです。


高田渡のこの「自衛隊に入ろう」というのは1968年に歌われました。時代としてはパリ5月革命があった時であり、日本でもベトナム反戦運動が吹き荒れていた反体制運動の高揚した時代であったのです。ここで歌われたこのコミカルな歌を、表面的にとらえて、ふざけた歌であり「きばらし」であるとみるのは間違いなのです。ここには自分たち日本人を見つめる真摯なまなざしがあり、世間体としてのフォークソングを超えた、芸術としてのフォークソングの外部性があるのです。世間体フォークソングに対する外部性こそが芸術であり、《芸術》というのはこのような形のファンキーさとしてで現れるのです。この「自衛隊に入ろう」という歌をこそ、超一流の芸術として認識することが重要なのです。ここには彦坂的な芸術の格付けで言えば、超次元から120次元までの多層性があるのです。



晩年の高田渡もまた、凄みのあるものです。ここには社会の外部としてのフォークソングの芸術的な根拠があるのです。芸術としての音楽は、立派なコンサートフォールにあるのだけではなくて、ホームレスとして野宿する路上にもあるのです。それは芸術としての美術が、美術館にあるのではなくて、その外部の野卑な俗世間にこそあるのと同様なことなのです。それは聖書に描かれているキリストが、砂漠に出て神と対話して帰ってくること、つまりパリサイ人が守る立派な教会の中には真性の神がいないということと対応していることなのです。神の子であるキリストが砂漠で出会う神が、教会の外部にいるように、芸術としての音楽は、社会の外部に根拠を持つていることを、フォークソング/プロテストソングは示して成功したのです。ここに芸術論のコペルニクス的な大転換があったのです。この1960年代のカウンターカルチャーの台頭
によってハイアートとローアートの従来の関係が転倒していくのです。

立教大学大学院の比較文明学の授業そのものはアメリカのフォークソングの歴史をやるのですが、その前に日本のフォークの中での芸術の位置を示しておかないと、大切なものが見えなくなるのです。ですので、もう少し彦坂尚嘉が評価する日本のファンキーなフォークシンガーを紹介しておきます。

ファーククルセーダーズです。

ファーククルセーダーズの歌のなかで、しかし大傑作は「かえってきた酔っぱらいです」。この歌をコミカル故に「きばらし」音楽と了解するのは、すでに高田渡で述べたように間違いなのです。ここにこそ、自分自身と向き合う芸術の外部性が現れているのです。


同じようなコミックさをもった芸術系フォークソングとしては なぎら健壱 がいます。誰も同意しないかもしれませんが、ここには《原ー芸術》があるのです。社会的通念としては「きばらし」に見える歌の中に、逆説的にシリアスに自分自身を見つめるまなざしがあるのです。グリンバーグの用語を使えば、芸術の規範というのは「絶対 即 相対」なのです。ですからシリアスアートの絶対性は、即、気晴らしアートであるかのような姿を取り得るのです。




もう一人、泉谷しげる をあげておきます。




ここには自分自身を正面から見つめる正当で真性の思想が存在します。この正面性を背負って成立した日本のフォークを私は愛するのです。ここには近代の分裂を超えて、超次元から120次元の多様性を抱え、日本の絶望状況を超えて、なお確信に生きるサントームとしての芸術音楽が成立しているのです。このことが、実はプロテストソングとしてのフォークソングの台頭と、その勝利の秘密なのです。つまり近代という時代の2分構造を終わらせるものとして、フォークソングは下層から出現したのです。これこそが21世紀の情報化社会の芸術への入り口を作り出したフォークソングの台頭であったのです。

さて、多すぎて恐縮ですが、後数人を紹介しておきます。
みな、本物の芸術であるフォークソングをやっています。

南 正人




三浦久

 


 豊田 勇造
 


古川豪 

 

ひがしのひとし


最後に女性を1人!
中山ラビ 



アメリカのフォークソングの歴史

さて、本題のアメリカのフォークソングの歴史を、真性の芸術のあるアーティストだけを取り上げて駆け足で見ていきます。

まずは黒人のフォークシンガーです。

レッドベリーLeadbelly 1888〜1949年)


レッドベリーは刑務所と社会を往復した人物ですが、彼が黒人であったことは重要です。近代というのは、一つはアメリカ合衆国こそが近代であったのですが、その最下層にいた奴隷としての黒人から、根底的な文明の転倒の運動が、ブルースやフォークソングとして起きていったのです。黒人の奴隷からのからの解放と、さらに彼らの表現の統合性が、つまり彦坂尚嘉的なしてんでは超次元から120次元の多層性をもっている人間存在の根源的なあり方が、分裂してしか存在していなかった近代と言う時代を告発し、乗り越えていったのです。近代の終焉を生み出した根源的な力が、黒人のブルースやフォークソング、そしてジャズにあったのです。

というわけで、次の黒人音楽入門的な映像を見てください。ここで演奏される様々な音楽には、すべて《原ー芸術》性があって、すばらしい真性の芸術音楽なのです。


ウディ・ガスリー

一般的にいえば下層音楽である民衆芸術というものには《高尚な芸術》性はなないのだが、ウディ・ガスリーにはじまるプロテストソングの系譜を中心にして、高度な芸術性を持つカウンターカルチャーが出現してくるのが1950年代から60年代の時代なのです。

というわけで、なんといっても重要なのはウディ・ガスリーです。


ウディ・ガスリーは、1912年生まれ、1967年に死んでいます。アメリカ合衆国の歌手です。まずは、ガスリーの
自伝・映画『わが心のふるさと』
を見てください。
ガスリーは生涯の社会主義者かつ労働組合活動家であったのです。






ビート・シガー


 
 アルマナック・シンガーズ
 


未完
この項続く。

プロテストソング/フォークソングの歴史 [現代音楽]

美術や音楽に思想がないとき、それは単なる娯楽に脱していってしまうのです。人間が生きることは苦しいことなので、人間にはエンターテイメントが必要で、そのための表現が大衆芸術とか娯楽なのです。普通の意味では民衆音楽というのは、直接性に依拠したエンターテイメントにすぎないのです。なぜにエンターテイメントだけではまずいのか。エンターテイメントというのはパスカルのいうところの「きばらし」であり、「きばらし」といのは、自分自身と向き合うことからの逃亡だからです。

自分自身からの逃亡として「きばらし」があるとパスカルは『パンセ』の中で書いています。日本のフォークソングの多くは「きばらし」の大衆音楽であって、《真性の芸術》性を欠いているものが圧倒的に多いのです。しかし、このような論法の「悪い場所としての日本」は正しいのでしょうか。間違っているのです。世界は多様であり、そして日本の現実もまた多様なのです。日本のフォークソングにも《真性の芸術》例外はいくつもあって、その一人が高田渡のフォークソングです。


高田渡のこの「自衛隊に入ろう」というのは1968年に歌われました。時代としてはパリ5月革命があった時であり、日本でもベトナム反戦運動が吹き荒れている反体制運動の高揚した時代です。ここで歌われたこの歌を、表面的にとらえて、ふざけた歌であり「きばらし」であるとみるのは、間違いなのです。ここには自分を見つめるまなざしがあり、芸術としての外部性があるのです。外部性こそが芸術であり、《芸術》というのはこのような形で現れるのです。この「自衛隊に入ろう」という歌を芸術として認識することが重要なのです。



晩年の高田渡もまた凄みのあるものです。ここには社会の外部としてのフォークソングの芸術的な根拠があるのです。芸術としての音楽は、立派なコンサートフォールにあるだけではなくて、ホームレスとして野宿する路上にあるのです。それは芸術としての美術が美術館にあるのではなくて、その外部にこそあるのと同様なことなのです。それは聖書に描かれているキリストが、砂漠に出て神と対話してくること。つまりパリサイ人が守る教会の中には真性の神がいないということなのです。キリストが砂漠で出会う神が教会の外部にいるように、芸術としての音楽は、社会の外部に根拠を持つていることを、フォークソング/プロテストソングは示して成功したのです。ここに芸術論のコペルニクス的な大転換があったのです。それによってハイアートとローアートの従来の関係が点灯していくのです。

立教大学大学院の比較文明学の授業そのものはアメリカのフォークソングの歴史をやるのですが、その前に日本のフォークの中での芸術の位置を示しておかないと、大切なものが見えなくなるので、もう少し彦坂尚嘉が評価する日本のフォークシンガーを紹介しておきます。

ファーククルセーダーズです。ここにも真性の芸術が存在します。


ファーククルセーダーズの歌のなかで、しかし大傑作は「かえってきた酔っぱらいです」。この歌をコミカル故に「きばらし」音楽と了解するのは間違いなのです。ここにこそ、自分自身から逃げない芸術の外部性が現れているのです。







一般的にいえば下層音楽である民衆芸術というものには《高尚な芸術》性はなないのだが、ウディ・ガスリーにはじまるプロテストソングの系譜を中心にして、高度な芸術性を持つカウンターカルチャーが出現してくるのが1950年代から60年代の時代なのです。

というわけで、なんといっても重要なのはウディ・ガスリーです。


ウディ・ガスリーは、1912年生まれ、1967年に死んでいます。アメリカ合衆国の歌手です。



ウデイの自伝・映画『わが心のふるさと』のワンシーン。自分の仕事を後回しにして組合 活動に傾倒するウディは奥さん向かって「何が給料だ!」と吐き捨てます。僕は感動しち ゃいました。この後で奥さんは子供を連れて出て行きますが・・・。フォークは心の豊か な人の音楽です!フォークはよく貧乏臭いと言われます。しかしそんなことを平気で言え る人たちの心のほうが遥かに貧しいのではないでしょうか?ガスリーは生涯の社会主義者かつ労働組合活動家

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