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久しぶりに競りが始まっています [気体分子ギャラリー]

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日本の敗北/アーティストは夢想する…(校正1) [気体分子ギャラリー]

日本の敗北

 私は彦坂尚嘉です。このテキスト・アートの作品を作ったアーティストです。第二次世界大戦が終わった翌年、1946年に日本に生まれました。今年で55歳です。

 

 私の出生は神話のにおいがします。1945815日、日本がアメリカとの戦争に敗れ、連合軍に降伏した日に受胎したのです。母は、彦坂和子、20歳の処女でした。和子は、天皇が日本の敗北を国民に伝えたラジオ放送を聞いて欲情し、日本の神と交合したのでした。つまり、処女懐胎の神話です。

 

 その朝、重大放送が正午にあることを何度もラジオが繰り返し伝えていました。昭和天皇裕仁が、自らその玉音をもって日本の敗北と戦争の終結を宣言しました。

 

 神国日本が、1931年の満州事変より戦った15年戦争で負けたというニュースに、和子は萎えるような、しかし燃え立つような、ほとんどマゾヒスティックな感覚におそわれていました。

 

 隣のおじさんは「鬼のようなアメリカ兵が上陸して、日本の女はみんな強姦される。あんたは逃げなさい」と彼女に言いました。

 

 隣のおばさんは「天皇陛下は琉球に流され、女は全部アメリカ人の妾になり混血児を生むんだ。男はアフリカやニューギニアに送られ奴隷に使われるんだ」と脅かすように言いました。

 

 多くの人々が死んだのに、20歳の和子は生き残りました。戦争に敗けても生き残った。和子は性的に興奮して身体が熱くなりました。

 

 玉音放送は日本を混乱に突き落としました。日本各地で噂が飛び交いました。以下に引用するのは、特高警察が全国から集めた記録から抜粋しています。

 

 富山県からの報告。「東京では反乱軍が外務省その他を焼き討ちしている」。

 

 数日前に原爆を投下された長崎での噂。「長崎の憲兵隊がトラックに分乗し拡声器で徹底抗戦を叫んで回りました。本日のラジオ放送はデマ放送だ。天皇陛下の御放送は別のお声で別の人が放送した。敵の謀略に乗じられるな」。

 

 貯金の引き出しに郵便局や銀行へ人々が殺到し、手持ち資金の不足で支払い停止に追い込まれました。

 

 福岡県では、農民が供出農作物の返還を要求しました。この動きは、農作物供出拒否の運動に発展し、西日本各地に広がっていきます。岐阜県では、農民が仕事を放棄しました。「こんな時に耕作する奴は馬鹿だ」。「アメ公に食わせたくない。だから働かない」。

 

 富山県黒部市では陸軍少佐、藤井権吉が家族を拳銃で撃ち、そして自決しました。

 

 815日直後、600人以上の軍人軍属が敗戦に衝撃を受け、責任をとって自決しました。

 

 日本が無条件降伏した日に、私の母が日本の神と性交するということがありえることなのでしょうか。しかし、日本の神々が混乱していたとしても不思議はないのです。民俗学者の柳田邦夫が「氏子と氏神」で戦後の神道の混乱について書いています。だから、玉音放送を聞いて精霊たちが嘆き悲しみ、日本の神々が砕けて飛び散ったというような空想ができないわけではない。そしてその一つが私の母と性交したこともありうるでしょう。いずれにせよ、1946626日に私は生まれました。

 

天皇巡幸

 日本で結核が広がったのは、産業革命が進む19世紀末でした。1918年には、結核による死亡が史上最高となり、太平洋戦争中に次のピークを迎えます。1945年、日本の敗戦の年には、食糧が乏しく、焼け出された人々も数多く、日本人の体力は落ちていました。この年、人口10万人にたいして282人が結核で死亡という日本史上最悪の流行になります。同時期のアメリカでは人口10万人に対して40人の死亡率ですから、アメリカの七倍以上の死亡率だったことになります。

 

 私は5歳のときに腸結核にかかりました。下痢が続き、体重が落ち、肋骨がむき出しになりました。若年層ほど結核の病状は深刻でしたから、私は死んでも不思議ではなかったのです。

 

 しかし、1952年アメリカで開発されたヒドラジットという強力な薬のおかげで命拾いします。

 

 私は、青山の日赤病院で結核の治療を受けました。大きな石造りの池があって、真っ赤な睡蓮の花が咲いていました。ある日、昭和天皇が病院を訪問しました。

 

 昭和天皇は、私が生まれた1946年の元旦に、現人神であることを否定し、人間宣言をしました。そして219日には背広姿で川崎市を訪れたのを皮切りに以後8年にわたり、戦火に疲弊した国民の復興努力を激励するために、沖縄を除く46都道府県を巡幸しました。市町村役場、工場、農村、炭鉱、引揚者施設などをまわり、国民にじかに話しかけました。その行程はのべ165日、33千キロにおよびます。日本国民は、平服の天皇がぎこちなく歩く様子、「あっ、そう」という抑揚のない相槌を打つのを目前に見て、感涙の涙を流しました。天皇は日本最大のセレブになったのです。

 

 私も青山の日赤病院で、列の一番前で天皇に拝謁しました。私もまた天皇の臣民なのだ、という感情が多感な私の心に植え付けられたのです。

 

 天皇の行幸は「民主化」の象徴であり、政治的な思惑で演出されました。アメリカ政府は日本の左傾化を防ごうという思惑があり、日本の宮内庁は天皇制を護持し、天皇の戦争責任を回避したいという思惑があったのです。

 

 つまり、占領軍のマッカーサー将軍は敗戦国日本の民主化を企図し、天皇はアメリカの政策を利用し、自らを人間化することで、日本社会の国民的スターになったのです。そのことにより、天皇はまたもや日本の近代化の先頭に立ったのです。天皇の大変身は成功し、戦後日本が奇跡的経済成長をなし遂げる道を助けることになりました。

 

テロ

 日本の高度成長がピークを迎えるのが1960年代。1960年は、私の人生にとっても大きな転換期でした。この年、私は中学2年で、腸結核が再発し肺結核を併発して入院しました。一ヶ月間42度の高熱が続き、頭痛がひどく、吐き気が止まらず、死線をさまよいます。病状があまりに悪化したので、医者は原因が分からないままに開腹手術を行い、慢性盲腸炎を見つけて切り取り、腸結核に直に薬を塗布しました。

 

 この入院中に、私はキルケゴールの「死に至る病」を読んだのです。学校を1年休学した私は、病院で世界文学全集、世界美術全集、日本近代絵画全集を読みふけりました。文学全集の1冊にキルケゴールも入っていました。中学生には難しい文章でしたが、たまたまNHKの教育ラジオ第2放送でこの「死に至る病」の連続講義があったので、それが大いに助けになりました。

 

 私は冒頭の部分を暗記しました。「人間とは何であるのか?精神である。精神とは何であるのか?精神とは自己である。自己とは何であるのか?自己とは、自己自身との関係である。あるいは、この関係への、関係である」。

 

 病院には牧師が定期訪問を行っていました。内村鑑三の信奉者でした。内村鑑三は教会制度を否定して無教会主義を主張した影響力のあるクリスチャンで、日露戦争の際には平和主義を唱えます。この伝統が引き継がれて、後に内村系のクリスチャンたちは太平洋戦争に反対しました。この牧師は私に「余は如何にして基督信徒となりし乎」を読ませました。内村鑑三の影響は大きく、1968年、私はベトナム反戦運動に加わりました。

 

 結核で入院した病院は、教職員組合の病院でした。(私の母が中学で国語を教えていた関係です)1960年はまた、1951年に調印された日米安保条約が期限満了の年で、政治的に重要な年でもありました。国民の条約廃棄を求める声にもかかわらず、日本政府は十分な審議もせず強行採決。教員も含めて何百万人という人々が国会のまわりで反対デモを繰り広げました。デモ帰りの教員たちが何人も入院中の同僚を見舞いました。私は彼らの武勇伝を聞いたものでした。

 

 そして1012日、社会党委員長で安保デモを指揮した浅沼稲次郎(61歳)が暗殺されるのを、私は病院の待合室のテレビの生中継で見ました。演説で議会民主主義の重要性を訴えているところに、刃渡り36センチの短刀を持った少年(後で17歳と判明)が演壇に駆け上がり、浅沼の胸を二度刺したのです。私のまわりにいた大人たちは異口同音に「テロだ!」と叫んでいました。初めて「テロ」という言葉を聞いて、私は衝撃を受けます。

 

美共闘

 1960年代には、驚異的な高度経済成長により日本人の生活は大きく変わりました。1965年までに、各種の家電製品―洗濯機、掃除機、炊飯器など―が普及しました。家事から解放されて、パートタイムの仕事につく主婦の数が増え、若年労働者の不足を埋めるようになります。

 

 この1965年、私は高校三年生でした。ほかの高三生たちが大学の受験勉強に集中している時期に、私は結核(肋膜炎)の再発に襲われます。症状が軽かったので、医者が通学を許可してくれました。しかし、医学部志望はあきらることになります。

 

 医者になりたかったのは、弟のことがあったからでした。私が7歳の時、母と義父の間に弟が生まれました。私が天皇に拝謁した青山の日赤病院での出産は難産で、医者が鉄製鉗子で頭を挟んで引っ張り出したために、脳が損傷を受けて重度の運動障害になったのです。障害をもつ弟は、現在48歳ですが、東京の西にある浜松の施設に入っています。彼の脳性麻痺から、私は医者になることを考えたのでした。しかし、結核のため、医学部進学の気持が挫けたのです。

 

 もう一つ、私がゆるぎない興味を持っていたものがありました。美術です。小1の時から油彩の個人教授を受けていました。先生は、母親の勤める中学校の同僚の美術教師で、権威ある日本のアカデミー、日展の画家でした。医者への道をあきらめた私は、美術への興味を新たにしました。

 

 この頃、特に傾倒した画家は、第二次世界大戦中の戦争に反対した靉光や松本俊介でした。特に松本俊介の二つのテキストに大きな感銘を受けました。戦中の陸軍の美術界支配に抵抗して雑誌『みずゑ』に執筆した論文「生きている画家」と、敗戦直後に美術家組合を提唱した「全日本美術家に告ぐ」です。

 

 後に、1969年に美術家共闘会議(美共闘)の結成に参加した時、松本俊介ら敗戦直後に死んでいったアーティストの意志を継承したいという思いがありました。

 

 1967年、20歳の私は、美術家になることを決心し、多摩美術大学に進学します。

 

 アーティストであろうとする意志。日本の無教会主義のキリスト者としての信仰。敗戦後の天皇の臣民としての自覚。この3つの要素が私の中で合体して、私の誇大妄想(=狂気)が形成される事になります。「天皇に京都に帰っていただきたい」という私の夢想は、こうした個人的で私的な背景から提案されています。

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アーティストは夢想する…

 

 日本の1990年代は「失われた10年」です。1991年のソビエト連邦の崩壊に続いて、日本社会もまた崩壊しました。何よりも、無数の自殺が日本の崩壊を象徴しています。第二次世界大戦の敗戦に続く「第二の敗戦」と言う人もいるほどです。

 

 2000年だけで33千人の日本人が自殺しています。これは大変な数字です。硫黄島の決戦で玉砕した日本側死者数よりも1万人も多いのです。

 

 1991年から2001年にかけて、つまり「失われた十年」といわれる1990年代から21世紀にかけて、およそ25万から30万にのぼる日本人が自殺しました。しかし、日本の社会はこの事実から目をそむけていて、ニュース・メディアもほとんど突っ込んだ報道はしていません。

 

 1945年、広島と長崎に原爆が投下されたとき、それぞれ14万人、8万人の人々が死亡し、あわせると22万人が死んだことになります。つまり、第一の敗戦の時に原爆で死んだ以上の死者を、第二の敗戦を迎えた日本は出しているのです。

 

 もし小泉純一郎首相が計画している経済の構造改革が成功するなら、痛みをともなう変化が起こると予想され、そのため現在以上の生命が自殺で失われることになりかねない。1945年、B29の空襲で東京では8万人が死にました。小泉改革により事態が悪化すれば、それ以上の死者を出すかもしれません。

 

 小説家の五木寛之氏はこう書いています。「日本人は自信喪失の段階を越えて、日本人であることを嫌悪し始めている」。もしそうだとすれば、「第二の敗戦」は深刻化の一途をたどり、事態はいっそう悲惨なものになっていくでしょう。

 

 第二次世界大戦が日本の敗戦に終わって、昭和天皇裕仁は軍服を脱ぎました。第二の敗戦では、今上天皇昭仁が、洋服を脱ぎ、着物を着ることを夢想します。

 

 天皇は、戦後の憲法が規定するように、日本の象徴です。ですから、天皇は着物を着て、日本文明の象徴であることを体現する。外国の要人が訪日する際には、自動車ではなく牛車を出して迎える。フランス料理ではなく日本料理を出してもてなす。そういうことを夢想します。

 

 1868年、京都から東京に遷都し、天皇の住まいも東京に移りました。その明治維新以来、近代日本の天皇は国の西洋化の先頭に立ち、重要な役目を果たしました。しかし、その天皇の務めは、今日では終結したのではないでしょうか。

 

 グローバリゼーション時代の今日、日本が急速にアイデンティティを見失っている時代に、天皇が欧米化の象徴であり続けることは、もはや不可能です。

 

 いよいよ拡大しつつある情報化時代において、もし天皇が何らかの象徴であるとするならば、日本文明の象徴、萎縮しつつあるも、古代の伝統、島国の伝統の記憶に満ちた日本文明の象徴であるべきでしょう。

 

 東京での天皇の役目は終わりました。いまや京都にお戻りいただく時期が来ました。

 

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マキイマサルファインアーツ個展について(校正1) [気体分子ギャラリー]

マキイマサルファインアーツでの今回の個展は、社長の牧井 優さんからの発案で、白濱雅也さんを通して私に折衝され、マキイマサルファインアーツの担当の佐藤香織さんとのやり取りの中で実現したものです。

受け身に始まった事なので、当初は間伐材を使ったフロアイヴェンとを一階の1室全部に展開することを思いついていました。それと2階には、気体分子ギャラリーでのオークション作品を額装して、全部に1直線上に並べるプランでありました。

それが変更になったのは、『HISTORY LESSONS』という作品がアメリカから戻したのを見直した所、皇居美術館のプロジェクトに直結している内容なので、その展示をしたくなったのです。

皇居美術館プロジェクトとHISTORY LESSONS』という文字の作品の関連性を見直す作品展示がテーマに浮上して、急に回顧展の色合いが強くなったのです。

それはもう一つの別の面を生み出します。皇居美術館の建築模型彫刻と、その前のアトラクター・ペインティングという作品が、制作的に《規制されたオートマティズム》という方法で作られていて、その系譜を並べて見たくなったのです。

つまり皇居美術館という現在の作品にいたる系譜をたどるという、回顧展形式の展示になってしまったのです。

観客に対して良いのかどうかは分かりませんが、本人は、実はこうした系譜の流れを自覚していなくて、無意識で作って来ている面が大きかったので、自分自身がまず見てみたかったという展示になりました。

このところ建築家の高橋堅さんと親しくさせていただいていて、何回も事務所に泊めていただいて徹夜で話すということをくりかえしているのですが、その中で高橋堅さんから指摘されるのは、彦坂尚嘉がコミュニケーションや、説得を第一義にしていないという事でした。

そのご指摘は分かりますが、今回の展示でも、皇居美術館にいたる系譜を2つの経路から展示する事は、日本の現在の観客を説得するには無理があるものです。それは私自身は知っていて、観客に合わせて展覧会を構想するのなら、もっと違うやり方でなければならないでしょう。

観客の欲望をとらえる形での制作や展示というものを真剣に考えるべきであると言う指摘は正しいとは思いますが、私自身にそれができるのか? といった時に、急には方向を変えられなかったと言い訳するしかありません。

今回の展示をしてみて、私自身に成果があったと言えば、自分の制作の歴史を、皇居美術館から逆照する形で見るという方法を得た事です。できればこれを薄いものでも良いから作品集にまとめてみたいと思いました。出版状況が厳しい中でできるかどうかは絶望的ではありますが追求してみたいと思います。



フリーアート第1回展のまとめ(2) [気体分子ギャラリー]

2, 《フリーアート》という形式

フリーアートというのを、タダで作品を上げると言う風に理解していた作家が何人かいて、それは間違いであったのです。間違いというのは、私の考えと違うというだけであって、その限りでしかありません。だから、別に文句を言ったわけではありません。もっとも十分な説明をしていなかったという事も言えるのですが、説明しても理解してくれない可能性も期待できなかったので、むしろ自由にやってもらった方が良いと思ったのです。

さて、私の考えた、形式としての《フリーアート》というのは、とても売れないような形式です。インスタレーションとか、メールアート、ブログによる作品、【YouTube画像】、映像インスタレーションなどです。とにかく美術市場の外に出た形式です。

もともと美術というのは市場はありませんでした。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画は、パトロンの王様や貴族と直取引をしていましたから、市場美術ではありませんでした。

市場美術が出現するのは、中国では宋の時代、ヨーロッパですと17世紀のフランドル地方からです。しかしそれはあくまでも先駆的なもので、本格的になるのは19世紀のパリからです。その市場美術の形式は、掛け軸とか、タブローといった運搬用の美術作品です。

市場美術の前提にあるのは、近代になってからの芸術の変貌です。芸術が、掛け軸やタブローのような運搬用の形式をとるとともに、量産プロセスに乗るようになってくるのです。それは美術だけではなくて、典型的なものが小説で、小説は新聞小説という形で始まります。同様な事が音楽にも言えて、一つが楽譜の出版と販売です。もう一つが興行としてのコンサートの登場です。美術にも同様な事が言えて、写真技術の展開と、産業革命の展開はほぼ同時で、平行して展開します。写真美術は石版技術の中から生まれるので、写真というのは版画としての量産性を宿命的に持っていたのです。この写真は、絵画の描写技術の自立物であったので、写真の登場は絵画を疎外することになります。

テクノロジーに疎外された絵画は、写真のように描く事の外に出て、新しい領域を切り開いて行きますが、それは運搬用の絵画がとしてのタブローの形式と、同時に量産できる絵画の生産スタイルをとります。つまりモダンアートというのは、さまざまな作品があったにしろ、主流に流れるのは量産的制作=シリーズ制作でありました。モネの連作や、セザンヌの連作に、このことは明らかです。つまり彦坂尚嘉的に言えば、画商を発生させて成立したモダンアートというのは流通美術であって、同時に流通に乗せるだけの量をつくる美術のスタイルであったのです。もちろん例外もあるし、反動もあったので、モダンアートが多様であった事も事実ではありますが・・・

つまり作品を売るというのは、売るという流通性に対する意識や、そしてそういう制作態度が必要なものなのです。日本の現代美術では、売る事がなおざりにして成立したために、その辺の自覚が無い形で来てしまっています。つまり市場に乗せもしないのに大量の作品をシリーズで作る作家がいますが、これも変なものなのです。量産という事が、売る事に直結しないままに、モダンアートの存在証明になっています。しかしこうして量産された作品は、作家の死後、多くはゴミとして遺族によって処分されるのです。

こういう市場美術の外にでるというのが《フリーアート》であって、その思考のイデオロギーも必要ですが、同時に形式が必要なのです。イデオロギーと言うか、思想的にフリーアートを考えていた作家が、上岡誠二さんでした。上岡誠二さんが提起していたのは、著作権の問題であって、形式論だけではなくて、著作権側からのアプローチが重要であったのです。著作権を無化するような過激な作品を制作しうる方向性を示していたのです。

一方で、後藤充さんの写真インスタレーション、彦坂尚嘉のインスタレーション、田嶋奈保子のパフォーマンス等々もまた、フリーアートの形式にそったものでありました。栃原比比奈さんの【YouTube画像】もまた、フリーアートの形式と言えます。フリーアートの形式としては不十分な作家も、しかしフリーに、ある程度ルーズに進める事の面白さが今回にはあって、楽しい展覧会でありました。



フリーアート第1回展のまとめ(1)(大幅改稿2) [気体分子ギャラリー]

1、入場料タダの展覧会は無理

美術展は、何故にタダなのか?
という疑問はあって、1971年の美共闘レボリューション委員会のプロデュース展は、有料にしていました。これは実質は、彦坂尚嘉一人で組み上げた展覧会だったのです。私の中には、日本の美術の仕組みそのものへの疑問は、出発当初からあったことになります。

結論を先に言うと、次回は、パフォーマンスの日だけに有料公開をするというスタイルを考えたいと思います。その方が今日的なのではないでしょうか?

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ギャラリー山口の最後の方の貸し画廊代は、上の部屋だけで一週間に30数万円であったので、これだけのお金を払って個展をやると、さらに150号1点の制作品は普通に絵を描けば10万円は超えるので、これが6点制作するとすると1回の貸し画廊の個展で100万円前後の費用が個展をする一人の作家にかかります。

これだけのお金を費やしても、一週間にⅠ00人くらいのお客というのが、現状であったと思います。そうすると一人のお客に1万円を費やしていることになるのです。

しかも作家の多くは、作品が売れない。あるいは売ろうとはしない。そして入場料がタダであるというのは、実に奇怪なシステムであったのです。まさに貸し画廊こそは、フリーアートであったのです。、

『フリーアート』展という名前を付けて美術展をやってみて、今回あらためて感じたのは、こうした日本の貸し画廊での美術展がむずかしくなって行く原因でした。

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こういう不思議なフリーアートのシステムが可能だったのは、高度成長経済というエンジンがあって、作家が豊かであったからです。

現在のように12年間も日本の経済が疲弊して行く時代になると、次第に貸し画廊を借りられる人が減って来て、破綻してくる。それがギャラリー山口さんの死と閉廊になったのです。

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フリーアート展ですが今回、実は27名という少数のお客さんではありましたが、なまじ来ていただくと、こちらが苦しいという経験をしました。

仕事の時間が接客で裂かれるのです。入場料も無しですし、作品を売るというわけでもないので、タダ見の客の存在は、意味が良く分からないという経験になりました。

若い人も来てくれたのですが、人生相談のようになって、2次会で飲み屋まで行く事をくりかえすと、付き合いきれないと言うか、無理なのです。グチですが、最近、いろいろと若い人に裏切られるというか、いいように引きずり回される経験をくりかえしてしまって、私は反省しているのです。

若い人と言っても、将来性のある有能な人は、音楽の情報などもくれたり、『毎日オークション/1円オークション』で作品も買ってくれて、それは付き合う意味があります。

しかしモラトリアムで、単なる不適応者にすぎ無い人も来るのです。こういう人は現在の日本の状況の悪化すらも認識していない人なのでした。私が相手をして話した所で無駄な事です。彼は自分の内面だけを見ていて、他人の話など聞いていないのです。たった一人の悩める若い人に、私の時間を長くとられるのは無理なことです。モラトリアムの人を解決する方法はありません。

ブログで接するとか、立教大学の授業や、ラカンの読書会に来てくれる分には間接的なので何とかはなりますが、入場料無料の画廊を開くことで接することは無理だと思いました。

今回のフリーアート展は、【YouTube画像】とブログの組み合わせでの発信が主軸でした。アクセス総数2205でした。そうすると、パフォーマンスのある日だけに有料の公開をするだけで良いのではないかと思いました。

次回は、パフォーマンスの日だけに有料公開をするというスタイルを考えたいと思います。その方が今日的なのではないでしょうか。

次回は正月に、建築系ラジオの人々による写真展を企画しています。これは形式的な意味でのフリーアートの追求というよりも、建築家および関係者による、デジタルカメラによる、イージーでフリーキーな写真表現の楽しさを追求してみようと思います。ご期待ください。ここでも建築系ラジオの収録など、何らかのパフォーマンスをしたく思います。

彦坂尚嘉の歌唱とよみがえる/フリーアート展 [気体分子ギャラリー]

『よみがえる』というバンドの演奏が、最終日のフリーアート展で演奏されました。





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