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検閲と禁忌 [アート論]

某氏より次のようなメールをいただいた。

彦坂様


糸崎さんの作品の優れている比較

◎◎さんを、とりあげてますが、

なぜ、それほど知られた写真家でもなく、糸崎さんの友人でもある彼女をわざわざ

比較例に挙げるのでしょうか?

ああいう写真家は他にもたくさんいます。




もちろん彼女は発表している作家ですから

批判も当然うけてしかるべきだというのは、わかります。


彼女の古い友人として、また、彦坂さんと知り合わせるきっかけをつくった立場としては、大変気が重く、心配です。

彼女は強がりをみせてますが、非常に不安定で脆く、面倒な人です。以前心身症で会社をやめてますし、鬱っぽいことも多々あります。写真に打ちこむことでやっとまえ向きな姿勢に、なれたところがあります。


理不尽な御願をうけてくださるとは思いませんが

できれば彼女の部分を除いて

いただき

とるにたらない作家として、

放っておいていただきたいと

切に願います。


最近自分の回りに、自殺に関することが多く

最悪の場合を想像すると、眠れぬ思いです。 



■■


個人メールをくださった■■氏は困った人だなと思いました。正当な要請とは思わなかったですが、記事は削除しました。こういうことは《検閲》であります。このことの重大性というものを、この個人メールをくれた■■氏は、理解出来ないのでしょう。そしてまた、作家は実は批判されて自殺するという事などは無い存在であるという事を理解していないのです。


実例として、批評で批判されてから自殺した作家をあげてみてください。私はそのように自殺した作家を知りません。作家というものは、外部からの批判で自殺するようなものではないのです。


それに、もしも◎◎氏が本当に自殺してしまったとしても、それは今日の日本の自殺者3万3000人分の1に過ぎない訳で、この多数の自殺者に対して誰も関与し得ないように、◎◎氏の死に関しても◎◎氏の自己責任であって、何人も関与はし得ないのです。作家というのは、自分の名前を出して社会的な責任を取っている存在ですから、その作家の自殺への危惧から、それをもって批評の自由を抑圧する事は、よけいなおせっかいであり、お門違いの事なのです。


ですから、もちろんこのような検閲を拒否し、削除をしないというのも、私の選び得る態度ですが、実際に削除を受け入れたのは、こういう要請をしてくる■■氏の、あまりに直接に生きている、その人生の苦しみの感覚に対して、私が答えようとしたからです。


作家の◎◎氏に対しても「とるにたらない作家として、放っておいていただきたい」と、たいへんに失礼なことを■■氏は書いている訳で、困った人だと思います。基本的な作家倫理や、他の作家に対する敬意の道徳心がないのです。


こういう疑心暗鬼で、実際の世間が動いている事は確かですが、これでは作家という存在ではありません。あまりにも人間的すぎるのです。ニーチェは『人間的な、あまりに人間的な』の中で、つぎのように書いています。


同情するものは自分は強者であると信じている。だから助けることができるとあらば、すぐにでも介入したくなる。


十分に自分自身を支配する力がなく、絶えざる自己支配・自己克服としての道徳を知らない人は、無意識のうちに善良で同情的な情動の崇拝者になってしまう。





削除部分 [アート論]

////////////////解説////////////////////

糸崎公朗さんの
「反ー反写真」シリーズと、フォトモの比較は、前回、下記のような形で解説しました。
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《非-実体》的            《実体》的
高尚な芸術             大衆芸術
芸術           エンターテイメント

この比較は、非常に分かりやすい凹と凸になっています。しかもモノクロ写真とカラー写真の対比もありますから、あまりにも芸術写真のクリシェイと、大衆芸術の比較になっていて、分かりやすすぎると言えます。

糸崎さん自身が、嫌いな芸術写真を意識的に模倣して作ったシュミレーショニズムの写真が、実は今回の「反ー反写真」シリーズなのです。私の評価も、このシュミレーショニズムの面白さであって、現在、そういう形でしか、モノクロ写真を撮る事には意味を認めません。つまり今日ではモノクロ写真での創造性は、かなり飽和してしまっているのです。

次は、下の写真です。これはいわゆる芸術写真のスタイルになっています。

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この門井さんのモノクロ写真に、《原-芸術》という言葉を投げかけると、反応がありません。《原-芸術》は無いと出るのです。今度は《原-大衆芸術》と言う言葉を投げかけると、反応があります。つまりこの写真も、実は本質としては大衆写真であるのです。

この門井幸子さんの写真と良く似た糸崎公朗さんの写真を並べて比較してみましょう。

門井糸崎.jpg

門井幸子            糸崎公朗
大衆芸術            高尚な芸術


私自身は、門井幸子さんの写真集を買いましたし、個展も見ています。その写真は《高尚な芸術》である写真をなぞっているのですが、しかし本質は大衆芸術の写真であると、彦坂尚嘉の芸術分析は結論づけるのです。
上の比較を見ると、空間の深さが、糸崎氏の方がはるかに深い事が分かります。すでにある既成のモノクロ芸術写真をなぞってその延長で作られた写真という意味では、門井さんの写真も、糸崎さんの写真も同様なのですが、にもかかわらず、この差が出る所が、私には面白いのです。

大衆芸術についてはすでに別のブログで述べています。大衆芸術がいけないと私は思っていませんが、しかしそれはエンターテイメントであって、直接性に依拠した偽の芸術なのです。この大衆芸術にこそ、人類の多数の表現の本質があるとも言えるのですが、しかし、高尚な芸術の仮面をかぶった大衆芸術が面白いのかどうか? 私には疑問なのです。

さて、時代は大衆社会になっていて、《高尚な芸術》に対する反発は強くて、日本に限りませんが、アジア諸国では大衆芸術が跋扈しています。。そういう中で、《高尚な芸術》を糸崎さんのような大衆芸術の専門家がつくることには、奇妙な倒錯があるのです。これを面白いと私は思うのです。

漫画の前史 [アート論]



漫画の前史

漫画の源流をさかのぼって考えたいと思います。それは今日の美術の問題を再把握する上にも重要だと考えるのです。





第一章 原始社会の漫画


漫画の源流を人類の美術に探していくと、アルタミラの洞窟画のような原始美術に至り着きます。

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絵画というのが何であるかと考えたときに、一つの起源はこうした洞窟画に見られるような線がを中心とした漫画的な表現であると言えます。

アルタミラの洞窟の外でも、ロックペインティングというものは、たくさん描かれています。

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もう一つ忘れてはならないのはナスカの地上絵の線描画です。

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原始社会の絵画で、もう一つ忘れてはならないのは、人間の身体に描いたボディーペインティングの流れです。


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このように、原始社会では、漫画というものを、自分の身体や地上、そして岩や岩穴という自然の支持体の上に描いてきたのです。


第2章 文明/農業社会の漫画

人類が定住して、古代文明を築くと、漫画は、その古代の建造物の内部に描かれました。その代表は、なんと言ってもエジプトの壁画です。

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東ローマ帝国のビザンチン美術というのも、建築の内部に、漫画、とはいってもキリスト教の宗教画ですが、今日の目で見れば宗教漫画とも言うべきものを、タイルを使って描いているのです。

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ギリシアでは、壷の上にも漫画を描いてきています。


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日本のカンウンターカルチャーとか、サブカルチャーの中で、漫画は、重要な位置を示しています。
これは、どのように始まったのでしょうか?

日本の「漫画」というのは、平安時代の絵巻物である『鳥獣人物戯画』や『信貴山縁起絵巻』であるとされています。

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『鳥獣人物戯画』

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『鳥獣人物戯画』

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信貴山縁起絵巻

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信貴山縁起絵巻

いや、それだけではなくて『餓鬼草子』や『地獄草子』といった仏教の教えから描かれている絵巻物にも、今日の日本の漫画や劇画につながる要素があります。

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餓鬼草子

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餓鬼草子

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餓鬼草子

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地獄草子

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地獄草子

こうしたものは、絵画と言っても、小さな美術で、本の美術なのです。イラストレーションの源流でもあります。こうした小さな絵画が日本の平安文化という日本文化の原型を作っていて、そこに漫画の期限もあるのです。

本の美術と言えば、ヨーロッパの写本もまた、宗教画ではありますが、キリスト教漫画とも言うべき漫画本に見えるものなのです。

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つまり人類が農業をやるようになった文明社会では、漫画は、建築や壷、そして本のような人工の支持体の上に描かれたのです。原始社会の漫画が、自然の支持体に直に描かれていたのに比べると、人工の支持体の上に描かれるようになった文明の漫画というのは、自然から離れるという浮遊性を基盤にして可能になったのです。

さて、問題なのは、こうした農業化社会の漫画というのが、近代の産業革命後の、私たちが知っている漫画というものに、どのように変貌したかです。

答えを先に言いますと、近代の漫画というのは、印刷技術によって量産された複製画なのです。つまり印刷美術なのです。近代漫画というのは、印刷美術であるという所に、その大きな特徴があるのです。ということは、前近代の農業化社会の漫画は、複製ではなくて、オリジナルの漫画であったのです。オリジナルの漫画が、複製漫画に変わるという所に、近代があります。

このように定義すると、近代漫画というのは、常識よりも前にさかのぼります。

【続きは下をクリックしてください】

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タグ:漫画

万人のための芸術(加筆1画像多数追加動画2追加校正2) [アート論]

かなりの人物でも、こと美術芸術になると、素人性をむき出しにする。

芸術としての美術と、デザインや工芸、そしてイラストとしての美術の
区別がつかないのです。

芸術を万人に理解してもらうのは、不可能だと思います。

この悩みをどう解決するのか。
このことを昨日も何人かと議論をしていたのですが、
一つの結論に到達しました。

つまり万人のための芸術というのは、
グリンバーグが言うように、不可能であるのです。
原理的に無理であるという事です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【加筆】

アーティストと、アルチザン(職人)の技術の違いというものがありますが、これが多くの日本人に分からないのです。

例えばシルクスクリーンを刷るときに、職人は、誰にもほめられるようにきれいに刷ります。つまりアルチザン(職人)というのは、万人に向かって制作しているのです。ですから芸術の名の下で、アルチザン(職人)がつくった作品は多くの人の賞賛をあびます。

シルクスクリーンの実例ではなくて、彫刻の例になってしまいますが、今日のアルチザン(職人)タイプのアーティストの代表は、なんと言っても小谷元彦氏です。

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彼の作品は、彦坂尚嘉の言語判定法での測定では、《原-芸術》や《原-彫刻》はなくて、《原-イラスト》や《原-工芸》性があるのです。小谷元彦氏の作品は芸術の名の下に作られた立体イラストであり、工芸作品でなのです。

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多様なメディアと手法をつかった小谷元彦氏の職人仕事は強いインパクトと謎めいた物語性とイメージがあって、しかも《超1流》で、日本の現代アートが6流で埋め尽くされている中できわめて傑出しています。

しかし芸術ではなくて、職人仕事なのです。だから万人のためのものだと言えます。だから多くの人が賞賛するのです。しかし多くの人が賞賛するが故にこそ、芸術ではないのです。

さて、話をシルクスクリーンの例に戻すと、前にも書いたりラジオでしゃべっている事ですが、アンディ・ウォーホルシルクの刷りは、ムラがあって汚いのです。

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万人は認めない、出来損ないの刷りなのです。こんな汚い刷りで良いのですか?と聞くと、作家であるアンディ・ウォーホルだけが、「これで良いのです」と答えるのです。つまり作家だけが良いと認めて責任をとる事の上に成立する技術が、芸術なのです。

実際に下記のプレスリーの作品は、汚いものなのです。万人を敵に回すからこそ、そこには芸術が出現するのです。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

繰り返すと、万人にわかる芸術というのは、
芸術の名の下に、デザインや、イラスト、工芸を作る事なのです。

つまり今日の芸術路線というのは、まさに、そういうものなのです。

そのことを認める必要が有ります。

大衆社会における芸術とは、
芸術の名のものに偽の芸術をつくることであり、
それが芸術の名の下にデザインを提示することなのです。
そういう意味で長谷川祐子氏の東京都現代美術館の『アートデザインの遺伝子を組み替える』展、そして『トランスフォーメンション』展の路線は、正しいと言えます。




しかし、もちろん、デザインはデザインに過ぎなくて、
いくら芸術の名の下に提示されても、それは偽物(にせもの)なのです。

偽物を本物と取り違えるのが、今日という時代なのです。

しかしどこまでいっても偽物(にせもの)は偽物(にせもの)です。

偽物(にせもの)の金も、本物の金も同じであるという名言をはいたのは、山本育夫氏でした。しかし偽物(にせもの)の金は、質屋に持っていけば、偽物(にせもの)とばれるのです。

だがしかし日本には、残念ながら芸術の質屋はないのです。
したがって、日本はデザインの国なのです。

また、多くの人に嫌われるでしょうが、アメリカの現代アートを、このブログでは見ていく努力を少ししようと思っています。少なくともアメリカの現代アート作品には、彦坂が好きな《原-芸術》があります。つまり見た目にはデザインであるかのようなアメリカ美術の作品には、《原-芸術》性があるのです。私は、このような芸術を日本に成立させる事が出来ないという事を、認めるようになってきています。日本の敗戦は大きかったのであり、江藤淳が指摘したように、日本の文化は虚偽になってしまったのです。マッカーサーの検閲システムがいかに優れていたのかが、今日の状況のなかでも、思い知らされる事態なのです。しかしこのような状況を嘆いてもはじまりません。このような負の状況をしたたかに自らの環境として直視する事が重要なのです。ともあれ、万人を説得する事は、芸術においては原理的にも不可能であるのです。それでもなお、万人を説得したければ、デザインを芸術の名の下で作る他ありません。そして押井守のように、万人を説得する事を断念することは、こういう状況の中では理性的な判断なのです。

グローバグ・コンセプチュアリズム [アート論]

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私自身は、《全人類の美術》という視座を重視しているのですが、しかし『空想皇居美術館』という本や作品があると、右翼で、国粋主義者とも見られています。

1970年のフロアイベントという作品でも、八畳の自宅の部屋にラッテクスという液体ゴムを流す作品をやると、畳や和室ということで、ローかリズムというイメージをもたれるようです。その辺は、本人が何かをいうのは信憑性も含めてむずかしいですが、グローバルな視野の中で、日本美術の中枢を見ようとしているのであって、もう一つの作品である『帝国美術館空想』というのもあって、これは世界美術史の中から超一流の作品を選んだ空想美術館です。これもブログにアップしていくつもりではありますが、なかなか多忙でできないできています。

しかしフロアイベントという作品は1975年にはパリに行っていますし、イタリアボローニャアメリカのクイーンズ、ロンドンのテイトモダンにも行っているのです。今回はカナダでの情報です。

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上記の画像は、富井玲子さんからいただいたもので、カナダでのグローバル・コンセプチュアリズムの会議に、富井さんが出席されたところのものです。

最近、2人のギャラリストと話しましたが、日本の美術状況は






想像界について [アート論]

耳で覚える芸術!百次元vol.10 [耳で覚える!芸術百次元]

彦坂尚嘉的『想像界』について。
百次元化した彦坂尚嘉の芸術探求トーク。
音声です、下記をクリックしてください。



 配信内容


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牧谿


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牧谿

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「白描」(はくびょう)ないし「白画」

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「白描」/「白画」

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藤森照信 タンポポハウス

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藤森照信   高過庵


漫画の前史 [アート論]



漫画の前史

漫画の源流をさかのぼって考えたいと思います。それは今日の美術の問題を再把握する上にも重要だと考えるのです。





第一章 原始社会の漫画


漫画の源流を人類の美術に探していくと、アルタミラの洞窟画のような原始美術に至り着きます。

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絵画というのが何であるかと考えたときに、一つの起源はこうした洞窟画に見られるような線がを中心とした漫画的な表現であると言えます。

アルタミラの洞窟の外でも、ロックペインティングというものは、たくさん描かれています。

Kagga Kamma Rock Painting.JPG


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もう一つ忘れてはならないのはナスカの地上絵の線描画です。

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原始社会の絵画で、もう一つ忘れてはならないのは、人間の身体に描いたボディーペインティングの流れです。


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このように、原始社会では、漫画というものを、自分の身体や地上、そして岩や岩穴という自然の支持体の上に描いてきたのです。


第2章 文明/農業社会の漫画

人類が定住して、古代文明を築くと、漫画は、その古代の建造物の内部に描かれました。その代表は、なんと言ってもエジプトの壁画です。

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東ローマ帝国のビザンチン美術というのも、建築の内部に、漫画、とはいってもキリスト教の宗教画ですが、今日の目で見れば宗教漫画とも言うべきものを、タイルを使って描いているのです。

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ギリシアでは、壷の上にも漫画を描いてきています。


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日本のカンウンターカルチャーとか、サブカルチャーの中で、漫画は、重要な位置を示しています。
これは、どのように始まったのでしょうか?

日本の「漫画」というのは、平安時代の絵巻物である『鳥獣人物戯画』や『信貴山縁起絵巻』であるとされています。

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『鳥獣人物戯画』

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信貴山縁起絵巻

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いや、それだけではなくて『餓鬼草子』や『地獄草子』といった仏教の教えから描かれている絵巻物にも、今日の日本の漫画や劇画につながる要素があります。

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餓鬼草子

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地獄草子

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地獄草子

こうしたものは、絵画と言っても、小さな美術で、本の美術なのです。イラストレーションの源流でもあります。こうした小さな絵画が日本の平安文化という日本文化の原型を作っていて、そこに漫画の期限もあるのです。

本の美術と言えば、ヨーロッパの写本もまた、宗教画ではありますが、キリスト教漫画とも言うべき漫画本に見えるものなのです。

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つまり人類が農業をやるようになった文明社会では、漫画は、建築や壷、そして本のような人工の支持体の上に描かれたのです。原始社会の漫画が、自然の支持体に直に描かれていたのに比べると、人工の支持体の上に描かれるようになった文明の漫画というのは、自然から離れるという浮遊性を基盤にして可能になったのです。

さて、問題なのは、こうした農業化社会の漫画というのが、近代の産業革命後の、私たちが知っている漫画というものに、どのように変貌したかです。

答えを先に言いますと、近代の漫画というのは、印刷技術によって量産された複製画なのです。つまり印刷美術なのです。近代漫画というのは、印刷美術であるという所に、その大きな特徴があるのです。ということは、前近代の農業化社会の漫画は、複製ではなくて、オリジナルの漫画であったのです。オリジナルの漫画が、複製漫画に変わるという所に、近代があります。

このように定義すると、近代漫画というのは、常識よりも前にさかのぼります。


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タグ:漫画

作品から語るアートとデザインの違い [アート論]

テーマ討議

収録日時:2010年10月24日
収録場所:香川県小豆島
収録時間:10分45秒
ファイル形式:MP3形式
ファイルサイズ:4.9MB
PLAY出演者:彦坂尚嘉+五十嵐太郎

瀬戸内国際芸術祭2010で展示された、スゥ・ドーホー氏の「NetWork」 について語ります。「Net-Work」は膨大な数の小さな人型の手足をつなげ漁の網のような物を作り、この網を砂浜の波打ち際に設置した作品です。ここでは彦坂尚嘉さんによる芸術論が展開されます。また、iMacの登場による工業デザインの変容や、若手現代美術作家の作品について述べられます。そして、アートとデザインの違いについては注目です。アンディ・ウォーホールを例にアーティスト職人の違いから、アートとデザインの違いについて言及しています。この収録は、小豆島を移動中のチャーターバス内でされたため、前半と後半に区切られていますが、内容がギュっと詰まった彦坂尚嘉さんの話は「一聴」の価値ありです。(近藤洋輔)


丸木美術館(加筆3) [アート論]

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丸木美術館に行ってきました。
初めてです。

藤沢から行くには遠くて、電車では片道3時間もかかるので、往復で6時間は無理です。車で2時間なので、車で行ったのですが、道に迷って4時間と、ずいぶんと時間がかかりました。

建物は、今日的な意味での美術館建築ではなくて、保育園の建築のような骨董的な懐かしさを思わせます。いや、教会の雰囲気もあります。
川のきれいなところで、この自然の美しさはかなりのものです。苦労して伺って良かったと思いました。


行ったのは元美術手帳の編集者の楠見清さんに、平川恒太さんとのシンポジウムに出るのでを見に来てくださいと誘われたからです。

楠見清さんは、ポップ・ネオポップという特集号を作られた美術手帳の編集者で、私はこの号によって歴史的分水嶺が作られたことを高く評価していて、楠見さんを尊敬していたのです。

丸木美術館での若い作家の個展の開催は、新鮮で良かったです。個人美術館で運営されていることには、改めて大変さを思いました。学芸員の岡村幸宣氏とお話ししましたが、よく頑張っておられ、関心しました。このような企画展を、低予算に押さえて年に3本ぐらい開催していけると良いと思いました。堀川紀夫さんがやっていたスカイプロジェクトの総集編をここでやるとかも、ありえるのかもしれません。

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「原爆の図」という作品そのものの芸術的評価については私の判断は厳しいですが、しかし、被爆を体験しないで生き残ってしまった日本人画家の一つの生き方としては、とにかく存在性をもってしまっている作品です。

『アートの格付け』

彦坂尚嘉責任による[ 原爆の図  ]の芸術分析


《想像界》の眼で《第8次元 信仰領域》のイラストレーション
《象徴界》の眼で《第8次元 信仰領域》のイラストレーション
《現実界》の眼で《第8次元 信仰領域》のイラストレーション


《想像界》の表現
《象徴界》《現実界》《サントーム》は無い

液体の表現(=近代美術)


《シリアス・アート》
《ローアート》
シニフィエの表現
理性脳の表現。

《原始平面》の絵画
ペンキ絵

【B級美術】


《原芸術》《芸術》《反芸術》は無い。

《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》の作品。

《形骸》《炎上》《崩壊》の概念梯子は無い。

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原シンボル》の概念梯子が有る。

大衆美術
作品空間の意識の大きさが《近代国家》である。
鑑賞構造が無い。
情報量が100である。


丸木位里という日本画家は、8次元、信仰領域の作家であるだけに、その被爆者を鎮魂しようとする鎮魂の祈りは、おおむね本物であったように私には思われます。しかし広島ではなくて、埼玉に建ったことは疑問に思います。そして美術館の名前も、なぜ「原爆の図」美術館にしなかったのでしょうか。その辺に濁りを感じます。つまり原爆の図という作品を、作家である丸木夫妻が私物化しているという印象を持つのです。しかし原爆の図というのは、私物化すべきものではないでしょう。

今からでも遅くないので、原爆の図美術館に改名するとずいぶんと変化できると思いました。

濁りを別にすれば、原爆の図は、日本美術のローカルな質とも重なっていて、福田和也的に言えば、マイナー日本固有の表現になっています。美術館のたたずまいと美しい自然、そしてこの美術館をまもっている良き人々、戦後主義と平和主義と民主主義への信仰という、古い日本の、もはや時代遅れとなった取り残された戦後の象徴性と骨董性を持っていて、一度は訪れるべき場所性をはらんでいました。

芸術分析をしてみて、最後の情報量が100であるというのは、情報アート性をもっているので、積極的な情報発信をしていける可能性を持っていると思いました。丸木夫妻以外の反戦作品の寄付をつのっていって、原爆廃棄運動と平和主義のアートのコレクションを充実させていく方向が有効なのではないでしょうか。つまり「原爆の図美術館」になっていけば、将来的な展望も開けるでしょう。でないと、後20年後には建築の寿命がきて、この美術館と作品の存続の危機が訪れます。その時点で、公立美術館に委託するなりするという選択もあるかもしれませんが。






タグ:丸木美術館

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