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第93回気体分子ギャラリー・オークション糸崎公朗「反ー反写真」個展♯6(改題) [気体分子ギャラリー]

糸崎公朗「反ー反写真」個展6

第93回気体分子ギャラリー・オークション
【締め切り12/20(月)】

  • 途中からで恐縮ですが、題名を変えました。オークションを作家の個展としてまとめて表示する事を、この糸崎さんの作品の提示の途中から考えつきました。という訳で、個展形式とシリーズ形式も交えて、このオークションを進めていこうと思います。改造中なので、過去の記事で改正していないものもあって、お見苦しい面がありますが、直しますので、ご容赦ください。こういう個展形式も交えると、ともっと多くの作家にも参加してもらえると思うのです。だからといって、何でもありという形は取りたくありません。あくまでも、気体分子ギャラリーのポリシーを形成し、まもって行きたいと思います。その条件は、このブログの当初は《41次元》性であり《
    超一流性
    》であったのですが、そのこだわりは変わりませんが、芸術分析も進化してきていて、今の時点で、一番重視するのは《原-芸術
    》性です。これについては、機会を見つけてブログで論を展開したいと思っています。

S-img099.jpg

糸崎公朗 「反ー反写真」♯6
101218_02


検閲と禁忌 [アート論]

某氏より次のようなメールをいただいた。

彦坂様


糸崎さんの作品の優れている比較

◎◎さんを、とりあげてますが、

なぜ、それほど知られた写真家でもなく、糸崎さんの友人でもある彼女をわざわざ

比較例に挙げるのでしょうか?

ああいう写真家は他にもたくさんいます。




もちろん彼女は発表している作家ですから

批判も当然うけてしかるべきだというのは、わかります。


彼女の古い友人として、また、彦坂さんと知り合わせるきっかけをつくった立場としては、大変気が重く、心配です。

彼女は強がりをみせてますが、非常に不安定で脆く、面倒な人です。以前心身症で会社をやめてますし、鬱っぽいことも多々あります。写真に打ちこむことでやっとまえ向きな姿勢に、なれたところがあります。


理不尽な御願をうけてくださるとは思いませんが

できれば彼女の部分を除いて

いただき

とるにたらない作家として、

放っておいていただきたいと

切に願います。


最近自分の回りに、自殺に関することが多く

最悪の場合を想像すると、眠れぬ思いです。 



■■


個人メールをくださった■■氏は困った人だなと思いました。正当な要請とは思わなかったですが、記事は削除しました。こういうことは《検閲》であります。このことの重大性というものを、この個人メールをくれた■■氏は、理解出来ないのでしょう。そしてまた、作家は実は批判されて自殺するという事などは無い存在であるという事を理解していないのです。


実例として、批評で批判されてから自殺した作家をあげてみてください。私はそのように自殺した作家を知りません。作家というものは、外部からの批判で自殺するようなものではないのです。


それに、もしも◎◎氏が本当に自殺してしまったとしても、それは今日の日本の自殺者3万3000人分の1に過ぎない訳で、この多数の自殺者に対して誰も関与し得ないように、◎◎氏の死に関しても◎◎氏の自己責任であって、何人も関与はし得ないのです。作家というのは、自分の名前を出して社会的な責任を取っている存在ですから、その作家の自殺への危惧から、それをもって批評の自由を抑圧する事は、よけいなおせっかいであり、お門違いの事なのです。


ですから、もちろんこのような検閲を拒否し、削除をしないというのも、私の選び得る態度ですが、実際に削除を受け入れたのは、こういう要請をしてくる■■氏の、あまりに直接に生きている、その人生の苦しみの感覚に対して、私が答えようとしたからです。


作家の◎◎氏に対しても「とるにたらない作家として、放っておいていただきたい」と、たいへんに失礼なことを■■氏は書いている訳で、困った人だと思います。基本的な作家倫理や、他の作家に対する敬意の道徳心がないのです。


こういう疑心暗鬼で、実際の世間が動いている事は確かですが、これでは作家という存在ではありません。あまりにも人間的すぎるのです。ニーチェは『人間的な、あまりに人間的な』の中で、つぎのように書いています。


同情するものは自分は強者であると信じている。だから助けることができるとあらば、すぐにでも介入したくなる。


十分に自分自身を支配する力がなく、絶えざる自己支配・自己克服としての道徳を知らない人は、無意識のうちに善良で同情的な情動の崇拝者になってしまう。





削除部分 [アート論]

////////////////解説////////////////////

糸崎公朗さんの
「反ー反写真」シリーズと、フォトモの比較は、前回、下記のような形で解説しました。
糸崎2つの仕事.jpg

《非-実体》的            《実体》的
高尚な芸術             大衆芸術
芸術           エンターテイメント

この比較は、非常に分かりやすい凹と凸になっています。しかもモノクロ写真とカラー写真の対比もありますから、あまりにも芸術写真のクリシェイと、大衆芸術の比較になっていて、分かりやすすぎると言えます。

糸崎さん自身が、嫌いな芸術写真を意識的に模倣して作ったシュミレーショニズムの写真が、実は今回の「反ー反写真」シリーズなのです。私の評価も、このシュミレーショニズムの面白さであって、現在、そういう形でしか、モノクロ写真を撮る事には意味を認めません。つまり今日ではモノクロ写真での創造性は、かなり飽和してしまっているのです。

次は、下の写真です。これはいわゆる芸術写真のスタイルになっています。

10.jpg

この門井さんのモノクロ写真に、《原-芸術》という言葉を投げかけると、反応がありません。《原-芸術》は無いと出るのです。今度は《原-大衆芸術》と言う言葉を投げかけると、反応があります。つまりこの写真も、実は本質としては大衆写真であるのです。

この門井幸子さんの写真と良く似た糸崎公朗さんの写真を並べて比較してみましょう。

門井糸崎.jpg

門井幸子            糸崎公朗
大衆芸術            高尚な芸術


私自身は、門井幸子さんの写真集を買いましたし、個展も見ています。その写真は《高尚な芸術》である写真をなぞっているのですが、しかし本質は大衆芸術の写真であると、彦坂尚嘉の芸術分析は結論づけるのです。
上の比較を見ると、空間の深さが、糸崎氏の方がはるかに深い事が分かります。すでにある既成のモノクロ芸術写真をなぞってその延長で作られた写真という意味では、門井さんの写真も、糸崎さんの写真も同様なのですが、にもかかわらず、この差が出る所が、私には面白いのです。

大衆芸術についてはすでに別のブログで述べています。大衆芸術がいけないと私は思っていませんが、しかしそれはエンターテイメントであって、直接性に依拠した偽の芸術なのです。この大衆芸術にこそ、人類の多数の表現の本質があるとも言えるのですが、しかし、高尚な芸術の仮面をかぶった大衆芸術が面白いのかどうか? 私には疑問なのです。

さて、時代は大衆社会になっていて、《高尚な芸術》に対する反発は強くて、日本に限りませんが、アジア諸国では大衆芸術が跋扈しています。。そういう中で、《高尚な芸術》を糸崎さんのような大衆芸術の専門家がつくることには、奇妙な倒錯があるのです。これを面白いと私は思うのです。

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