漫画の前史 [アート論]
漫画の前史
漫画の源流をさかのぼって考えたいと思います。それは今日の美術の問題を再把握する上にも重要だと考えるのです。
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第一章 原始社会の漫画
漫画の源流を人類の美術に探していくと、アルタミラの洞窟画のような原始美術に至り着きます。










絵画というのが何であるかと考えたときに、一つの起源はこうした洞窟画に見られるような線がを中心とした漫画的な表現であると言えます。
アルタミラの洞窟の外でも、ロックペインティングというものは、たくさん描かれています。









もう一つ忘れてはならないのはナスカの地上絵の線描画です。







原始社会の絵画で、もう一つ忘れてはならないのは、人間の身体に描いたボディーペインティングの流れです。



このように、原始社会では、漫画というものを、自分の身体や地上、そして岩や岩穴という自然の支持体の上に描いてきたのです。
第2章 文明/農業社会の漫画
人類が定住して、古代文明を築くと、漫画は、その古代の建造物の内部に描かれました。その代表は、なんと言ってもエジプトの壁画です。




東ローマ帝国のビザンチン美術というのも、建築の内部に、漫画、とはいってもキリスト教の宗教画ですが、今日の目で見れば宗教漫画とも言うべきものを、タイルを使って描いているのです。







ギリシアでは、壷の上にも漫画を描いてきています。







これは、どのように始まったのでしょうか?
日本の「漫画」というのは、平安時代の絵巻物である『鳥獣人物戯画』や『信貴山縁起絵巻』であるとされています。

『鳥獣人物戯画』

『鳥獣人物戯画』

信貴山縁起絵巻

信貴山縁起絵巻
いや、それだけではなくて『餓鬼草子』や『地獄草子』といった仏教の教えから描かれている絵巻物にも、今日の日本の漫画や劇画につながる要素があります。

餓鬼草子

餓鬼草子

餓鬼草子

地獄草子

地獄草子
こうしたものは、絵画と言っても、小さな美術で、本の美術なのです。イラストレーションの源流でもあります。こうした小さな絵画が日本の平安文化という日本文化の原型を作っていて、そこに漫画の期限もあるのです。
本の美術と言えば、ヨーロッパの写本もまた、宗教画ではありますが、キリスト教漫画とも言うべき漫画本に見えるものなのです。







つまり人類が農業をやるようになった文明社会では、漫画は、建築や壷、そして本のような人工の支持体の上に描かれたのです。原始社会の漫画が、自然の支持体に直に描かれていたのに比べると、人工の支持体の上に描かれるようになった文明の漫画というのは、自然から離れるという浮遊性を基盤にして可能になったのです。
さて、問題なのは、こうした農業化社会の漫画というのが、近代の産業革命後の、私たちが知っている漫画というものに、どのように変貌したかです。
答えを先に言いますと、近代の漫画というのは、印刷技術によって量産された複製画なのです。つまり印刷美術なのです。近代漫画というのは、印刷美術であるという所に、その大きな特徴があるのです。ということは、前近代の農業化社会の漫画は、複製ではなくて、オリジナルの漫画であったのです。オリジナルの漫画が、複製漫画に変わるという所に、近代があります。
このように定義すると、近代漫画というのは、常識よりも前にさかのぼります。
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タグ:漫画
第92回気体分子オークション【締め切り12/20(月)】糸崎公朗「反ー反写真」個展♯5(改題)(最後に加筆1) [気体分子オークション」]
糸崎公朗「反ー反写真」個展♯5
第92回気体分子オークション
【締め切り12/20(月)】

糸崎公朗 「反ー反写真」♯5
【101218_01】
『アートの格付け』
彦坂尚嘉責任による[糸崎公朗の「反ー反写真」♯5]の芸術分析
《想像界》の眼で《超次元〜第150次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第150次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第150次元》の《真性の芸術》
《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現。
《シリアス・アート》である。ただし《気晴らしアート》性が無い。
《ハイアート》である。ただし《ローアート》性が無い。
シニフィアンの表現である。ただしシニフィエ性が無い。
理性脳の表現である。ただしと原始脳性が無い。
《透視画面》 オプティカル・イリュージョン【A級美術】。ただし【B級美術】性が無い。
《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の全概念梯子が有る。
《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原デザイン》《原シンボル》の概念梯子が無い。
貴族の芸術である。ただし大衆美術性が無い。
作品空間の意識の大きさが《宇宙》である。
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「芸術写真はモノクロである」などと言う定義は、どこにも無い。カラーの美しさや官能性についての否定は、レオナルドダヴィンチは書いているが、それも正しいが、しかし色のきれいな《真性の芸術》もあるのです。芸術の原則には、グリンバーグの言う所の《絶対-即-相対》という原則があって、色彩の官能性の否定は《高尚な芸術》が直接性を否定するが故に、絶対なのですが、同時に《即》という原則があって、色彩の官能性があっても、それを間接化し、その外部に出る芸術表現は可能なのです。
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