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アウエルバッハ2 [今日の《原-芸術》の可能性を求めて]

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"不確定性原理"はアーティストの確率極性議論するための言語数学彼女の調査延長する考えている。彼女の分析の中心質問です決定論と確率が異なっている展覧会ではオスロSTABDARDギャラリー6月8日まで実行されています。

絶望と確信/アートビジネスとサヴバイバル(加筆2校正2) [アート論]

作品の善し悪しというのはあって、それは比較で分かるものです。1人の作品だけを見ていては分からないのです。


門井糸崎.jpg
6次元             超次元

つまり平凡な風景を撮った芸術写真というものにも、実はいろいろなものがあるのです。この差を見て行かないと面白くない。あるいは作品を買うおもしろみや、ダイナミズムは現れないのです。
 

今回のオークションでは、糸崎公朗さんの反反写真と、ある日本の作家と比較して、問題になり、検閲削除事件になりました。問題になる事は予想していて、一応糸崎さんの友人関係の人は外す配慮を私はしたつもりだったのですが、それが私の知らない所で友人関係だったのです。だから問題はこじれました。この事自体は小さな、取るに足らない事件ですが、しかしその裏には、日本のアート界のどうしようもない小ささが潜んでいるのです。

アート関係の人間空間が小さくて、《群れ》や《村》の中の心理状態になっている。

生きている意識の空間が小さい人の作品は、同じように作品空間が小さいのですが、同時に心理世界もまた小さいのです。特に彦坂は《群れ》といっている意識空間に属している人は、実は原始共同体に意識の中で生きています。人間関係が20人から120人程度の《群れ》の中に閉じられているのです。原始共同体の意識ですので、それは想像界であり、呪術的な意識の世界なのです。

こういう生き方を、私は悪いとは思いません。しかし私自身とは、いろいろなところで齟齬をきたし、人間関係をゆがめる結果になります。

《群れ》の意識の人々のそこでは美術や芸術の学問的な普遍性を追いかける意識が無いのです。本当の意味で、すぐれた芸術を作って行こうという切磋琢磨がないのです。そして作品を売る事の原理的把握もまた、ほとんど考えられていない。
 

作品を売るというのは、市場空間です。
市場というのは、国家(近代国家のことを国民国家と言います)の規模の大きな意識空間でないと成立しないのです。
つまり《群れ》や《村》のなかには、市場というものはないので、作品を売るという事は成立しないのです。

つまり美術作品の売買というのは、最低でも近代国家という広い意識空間の人でないと成立しないのです。そして今日ではグローバルなより大きな空間意識のなかでしか成立しないのです。ということは、実は作品の制作も、今日の芸術の追求も、実は最低でも近代国会の大きな意識空間が必要であり、さらにはグローバルな意識の空間の大きさが必要なのです。

日本の写真界や美術界というのは、《村》化していて、世間体の縛りを形成しているようです。
つまり日展のような既成の団体展の外に出ているアーティストでも、団体展と同じような小さな付き合いの集団を形成していて、その中での安定した人間関係を大切にしているのです。もちろん、人間が具体的に生きていくうえで、こうした小集団を形成する事は当然な事ではあります。

しかし、こうした中での芸術写真としての風景写真というのは、市場には、一部の例外の作家しか登場していない。それは《村》、あるいは《島》という小さな空間意識と、こうしたアート界の世間体の縛りが、若いアーティストに才能を縮こまらせて行くからです。若い時の超一流の作品は、見る見るうちに6次元や、8次元に転落させてしまって、低空飛行を続けるだけにするのです。つまり《群れ》や《村》の世間体の意識が才能を殺してしまうのです。今日の新しい表現を獲得するためには空間の拡大が必要です。しかしそれができない。
 

日本の文化空間が小さくしか形成されない事の大きな原因は、日本の社会の中に、1940年代の国家総動員体制での言論統制の構造が、戦後も継続してしまった事があります。

 この事実については野口悠紀雄氏が、名著『1940年体制』の中で書いています。
 
 
 日本の新聞の美術欄では批判が書かれない傾向が非常に強いのです。それは欧米の新聞の果敢な批判活動とは大きく違います。
 
 
 日本の場合、さらに敗戦後の進駐軍による言論統制が行われました。マッカーサーは、日本の思想を解体するために検閲を実施して、しかもこの検閲の事実すらを報道する事を禁止したのです。そのシステムは、日本の現在にまで作動し続けているのです。
 
これについては文芸評論家の江藤淳氏が『自由と禁忌』など、数冊のアメリカ秘密文書の公開を研究した著作で書いています。
 
 
こうした2重の検閲制度の構造を日本の文化は残して継続しているために、日本には言論の自由も、批評の自由も十分ではないという、衰弱した文化構造になってしまったのです。日本の現代美術/現代アートが、欧米のみならず、アジアの諸国の中でもとりわけ弱い事には、こうした言論統制の2重苦のシステムが、アーティストの内部深くまでに組み込まれている事があります。そのことが《群れ》や《村》という小さな意識空間を作り出す原因と言えます。広い意識が、言論の自由や批評の自由抜きには形成できないからです。
 

アーティストの内部深くまでに組み込まれている日本のこうした批評や批判を許さない言論封殺の構造は、今後1000年くらいは続くのではないでしょうか。
 
批評なき世界、提灯記事だけの世界で、日本は停滞しつづけ眠り続けるのでしょう。日本の現代アートの作品を批評する事は、もはや意味はないのです。

日展や団体展の作品を批評してもはじまらないのと同様に、同じような世間体アート化した現代アートの美術界を批評することは、意味が無いのでしょう。なぜなら、ここには最初から《原-芸術》の位相が無いからです。つまり日本の美術制度の衰弱を脱する方法は、私の主観の中ではもはや無いという断念にたっしました。
 

 

ですから、このブログでは日本の現代作家に対する批評行為はあきらめて、日本の古典と、海外の作家の紹介や分析に重点を移そうと思います。

1990年代の小山登美夫ギャラリーを代表とする新しいギャラリー群が、日本国内の失われた10年という低迷に見切りをつけて海外に脱出して行ったように、日本の作家や美術批評もまた、日本文化には見切りを付けて、海外の高度な作品批評と、そしてまた日本の過去の名品の発掘に脱出して行くしか無いのだろうと思います。

日本の過去に脱出しようとする行為は、実は江戸時代にもあって、本居宣長を代表とする国学の流れは、中国文化の亜流と化した江戸文化に愛想をつかして、古事記や万葉集の研究に脱出して成果を上げたのです。

いつの時代には、日本人はコンテンポラリーな日本文化に絶望するのかもしれません。

しかし絶望しても、この現実から脱出する事は出来るのです。事実を事実として認めて、自由に向けて脱出すること。

 
 
 
 
 
 


落札4点の報告/糸崎公朗展 [気体分子オークション」]

実況ができませんでしたが、競りが成立して、作品が1点ですが、
定価よりも高額化しました。

8点アップして、4点を落札していただきました。
感謝です。

糸崎1.jpg
No.88【101214_01】「反ー反写真」♯1

落札価格:24,100円(額付き)



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No.90【101216_01】「反ー反写真」♯3

 

 

落札価格:6,000円

、シートのみ。


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No.92【101218_01】「反ー反写真」♯5


落札価格:15,000円(額付き)

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【101220_02】反-反写真#08

落札価格:6000円、シートのみ


 


 

 


 

 


沖縄建築ツアーの第2弾/建築系ラジオ [告知]

建築系ツアーはたいへん面白いものです。

下記ツアーに彦坂も参加しますので、

興味のある方は、ご参加ください。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

建築系ラジオ・沖縄建築ツアーの第2弾

 

日程は

2月5日(土)午後 現地集合

2月7日(月)夕方 現地解散

を予定しています。

 

現地集合、現地解散ですので、

飛行機チケットは皆さんの方で各自ご購入して頂きまして、

沖縄での宿泊、観光バス、施設入場料などを

ツアー代金と致させて頂きます。

 

ツアー代金は、参加人数によって変動致しますが、

旅行会社の伊藤さんのお話では、

 

・ホテル(2〜3人1部屋)・・・2泊(朝食付き)

  ※1人部屋利用の場合は追加料金が別途必要

・バス・・・3日間(貸切)

  ※駐車料金など別途必要

・各種入場料

 

の概算として30~40名程度の参加の場合、

25000円〜30000円あたりになりそうとのことです(未定です)。

 

ちなみに、各種入場料は下記の通りです。

入場料・・・美ら海水族館(@1800/@1440※20名以上)

入場料・・・パイナップル園(@500/@450※15名以上)

入場料・・・沖縄平和祈念資料館(@300/@240※20名以上)

入場料・・・首里城(@800/@640※20名以上)

体験料・・・琉球ガラス体験(@2500)

※右側の金額は、団体料金です。

 

ただし、人数次第で金額は変動致します。

 

昼食代や夕食代(懇親会含む)は、別途各自負担となります。

 

 

見学場所はまだ詳細を決定していませんが、

前回ツアーではまわれなかった

・首里城

・首里金城町の石畳

・城西小学校(原広司)

・那覇市民会館(金城信吉)

・那覇国際通り(ガーブ川水上店舗など)

は入れたいと思います。

 

その他、前回ツアーでも訪れた

・名護市庁舎(象設計集団)

・今帰仁村中央公民館(象設計集団)

・聖クララ教会(片岡献+SOM)

・沖縄県平和祈念資料館(福村俊治)

・平和の礎

は入れたいと思います。

 

今回のツアーでは、

建築以外の方々の参加歓迎ということと、

普天間基地問題や尖閣諸島問題で何かと話題の

沖縄の文化についても知って頂こうということで

上記の美ら海水族館などの施設や、

地ビールのオリオンビール工場(試飲可能)などにも行けると

おもしろいかなと思っています。

 

以上のようなツアーを予定しています。

よろしければご一緒にいかがでしょうか。

 

日が近づきますと飛行機の金額が上がっていきますので、

飛行機チケットは早めにご購入頂く方がよろしいかと思います。

現段階で参加をご希望される方々の人数を確認したいと思うのですが、

ご希望される方はいらっしゃいますでしょうか。

南先生からもありましたように、このメーリングリスト以外の方々のご参加でも結構です。

バスの関係もあり、バス1台分(おそらく40名程度)の人数になりましたら

締め切らせて頂きます。

 

参加ご希望の方は、

 

12/24(金) 15:00 までに

入江宛 chini101@iris.ocn.ne.jp

 

にメールを頂けますでしょうか。

まとめてのご連絡でも結構です。

いったん今週中で何人くらいの参加になるか確認してみたいと思います。

 

メールの際に、他に見学したい場所やご要望・ご相談などございましたら

お書き頂ければと思います。

ご相談のメールでもなんでも結構です。

 

以上、どうぞよろしくお願い致します。

 

 

入江徹

 


第94回気体分子ギャラリー・オークション糸崎公朗「反ー反写真」個展♯7 [気体分子オークション」]

糸崎公朗「反ー反写真」個展7

第94回気体分子ギャラリー・オークション

不手際でアップが遅れたので、興味がある方は、締め切りは延長されていますので、ご入札ください。



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糸崎公朗 「反ー反写真」♯7
【101220_01】

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糸崎公朗 「反ー反写真」♯8
【101220_02】


作家名:糸崎公朗
ペーパーサイズ:210×297mm
イメージサイズ:203×271mm
素材:顔料インクジェット 写真仕上げモノクロ微光沢ペーパー(0.28mm厚)


『アートの格付け』

彦坂尚嘉責任による[糸崎公朗の

「反ー反写真」♯8

]の芸術分析




《想像界》の眼で《超次元〜第150次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第150次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第150次元》の《真性の芸術》



《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現。



《シリアス・アート》である。ただし《気晴らしアート》性が無い。
《ハイアート》である。ただし《ローアート》性が無い。
シニフィアンの表現である。ただしシニフィエ性が無い。
理性脳の表現である。
ただしと原始脳性が無い

《透視画面》 オプティカル・イリュージョン【A級美術】。ただし【B級美術】性が無い。


《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の全概念梯子が有る。

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原デザイン》《原シンボル》の概念梯子が無い。

貴族の芸術である。ただし大衆美術性が無い。

作品空間の意識の大きさが《宇宙》である。
《対話》《信仰》という鑑賞構造2つが有る。しかし《愛玩》《驚愕》《瞑想》は無い。
情報量が100である。

糸崎公朗さんの、こうしたカラー写真にしても、本当にこのまま展開されていくのかどうかは、かなり疑わしいと思っています。それは糸崎さんに限らず、誰にも言える面と、もう一つは糸崎さんが、本当には自分の芸術の意味が分かっていないからです。

それにフォトモやツギラマという今までの代表作の大衆芸術性そのものの性格と限界を、糸崎さんは、まったく分かっていないように私には見えます。その辺のことをもう少し突っ込んで語ると、人間関係がまずくなるという、最近の検閲削除問題と同様の展開になるのを嫌って、止めておきます。なにしろこの日本では、人間関係だけが何よりも重要なのですから。

このオークションに出品している写真の魅力や、その実力を、本当は私は示したいのですが、それも止めておきます。人間関係が悪くなるので、抑制しておこうと思うのです。

私の場合、つい、一生懸命になってしまって、結果的には嫌われ、裏切られ、ひどい人間だとののしられてきているのです。さすがに、この日本の現実社会の中では、良く人を見て、気おつけて動かないと、痛い目に会います。大衆という良い人たちというのは、実は凶暴でエゴイズムに満ちているのです。大衆には、芸術に対するモラルがないのです。誰1人として大衆は信じてはいけないと、最近は考えるようになりました。覚悟は決めなければなりません。大衆は芸術に対するモラルの無い悪魔なのです。誰も信じてはならない。人間不信に中に立てこもらなければなりません。そういう意味では糸崎さんはまったく信用していないのです。芸術に対するモラルはありません。糸崎さんは芸術であることの真摯さを、将来には裏切るでしょう。糸崎さんにとっては、社会的に成功し、売れれば、高尚な芸術であろうと、大衆芸術であろうと、偽の芸術であろうと、くだらないゴミであろうと、なんであっても良いのです。必要な事は、社会的成功であり、金であり、地位であり、権力なのです。私の場合にはそうではなくて、《原-芸術》性を持った真性の芸術であることが、きわめて重要なのです。ですから私のカードは糸崎さんには全部は見せないで、私の棺桶の中まで持って行こうと思います。カードを見たければ、神と格闘する芸術の真理を、自分の知力を使って盗むことです。



芸術分析の食い違いの問題と、糸崎写真の虚偽性について(改題2大幅加筆1) [アート論]

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狩野恵輔さんから、前の門井幸子さんの作品との食い違いのご指摘を受けた。前の分析を確認しないで書いたのだが、しかし今回門井さんの作品をもう一度分析をしなければ気が済まなかったもやもやとした納得のいかなさがあったのだが、芸術分析の食い違いは、それは符号する。門井幸子さんは変化したのではないのか? とにかく、まず、コメントを読んでみてください。


コメント 2

以前、彦坂さん自身が分析した門井幸子さんの批評と食い違っていますが。
http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/index/283

前回否定的なコメントを書きましたが、基本的に僕は彦坂さんの批評を肯定的に読んで来ました。第一回のブログから今日まで絶えず読み続けています。というのも、僕の判断と彦坂さんの批評が概ね一致するからです。僕の感じる良いという部分を言葉に変換してくれる彦坂さんの批評は僕の頭の整理に非常に役立ってきました。わずかにずれる部分はむしろ僕に向かって疑いを投げかけ、修正していたほどです。
ところが、糸崎さんの写真から僕の中で疑問が生まれています。僕の眼からすると、糸崎さんの写真は良くないのです。本人が発言しているのを受けているという事実は否定しませんが、しかし、それを除いても僕には単なる”なぞらえ”にしか見えないのです。彼の写真の奥にある、隠し難い素人臭さが目につくのです。単に形だけを真似していることが写真に表れています。形さえ真似すれば良いのだろうという小さながら開き直りのような、あるいは自分自身は作品とは無関係に存在し、セオリーどおりに作ることを密かに笑っているような、そうした軽薄さが作品に出ているのです。僕にはむしろ彼の写真は形骸化しているように見えます。そのことが彦坂さんには見えないのだろうか、または見えた上でそれでも彼の作品を評価するのか、そのあたりを聞かせていただけたらと思います。 
by 狩野恵輔 (2010-12-20 10:29)  



狩野恵輔様

食い違いのご指摘ありがとうございます。
そちらは自分でも興味深いので、ブログに一本たてて取り上げてみます。

糸崎さんのことは、そこで答えられるかどうかは、今わかりませんが、
考えてみます。 
by ヒコ (2010-12-20 11:20)  

芸術分析の食い違いの問題


彦坂尚嘉の芸術分析の基盤にあるのは、ヤーコブ・ローゼンバーグの芸術の質の比較分析の研究です。これを読んでから20年以上、いろいろと分析をやってきています。立教大学大学院の授業でも今期、1度だけですがヤーコブ・ローゼンバーグの本にある2つの画像を見せて、学生に判断を出させました。

レンブラント1.jpg

レンブラント2.jpg

この2枚の作品を比較して、どちらが良い作品であるかという比較分析なのです。2枚を並べてみます。

レンブラントの比較.jpg

レンブラントの比較2.jpg

2枚あるのは、左右で見え方が違うので、右左を置き換えたもので2枚作ったのです。この場合、一枚のドローイングがレンブラントの描いたものです。もう一枚が、レンブラントの弟子が模写したドローイングです。

こういう類似したデッサンを、いくつも見せて、どちらがすぐれているのか? という試験をやったのですが、学生たちは、きわめて憂鬱な顔になりました、違いがデリケートなのと、自分があまりにも間違えるからです。

さて、そういう風に、比較はきわめてデリケートです。
答えは、やや汚れの無い大きくい作品の方が、弟子の描いたものです。

レンブラントの比較.jpg

弟子=6次元            レンブラント=超次元


今回の門井幸子さんの作品の場合にも、私が前に書いたブログの写真は、今見ても《超一流》の真性の芸術なのです。

そして今回の、門井さんのホームページから撮ってきた写真画像は、《6次元》のデザインエンターテイメントなのです。

まず、昔のブログで超一流と分析している写真です。この段階では、本の出版はされていません。


門井幸子超一流.jpg
超次元の作品



下は、今回の私の新しい芸術分析につかった写真です。門井幸子さんの本の出版後のホームページから取ってきたものです。


門井幸子6流.jpg
6次元の作品

これを2枚並べてみます。

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超次元             6次元


写真の下部の自動車のタイヤの後にたまった水の部分を比較すると、6次元の写真の方が、やや濃くて、くっきりと目立つようになっています。逆行の山の部分も、言葉で言うのはむずかしいですが差異があります。同じネガの写真ですが、紙焼きが違うものである可能性があると私の主観では推量します。事実は知りませんので、それ以上の判断は言語判定法の範囲を超えてしまいます。

言語判定法だけで真実や事実が分かるものではありません。人間の判断には、イメージ判定法、現実判定法(科学的判定法)、そして言語判定法という3つが必要なのです。正確に事実をとらえるのには、3つをすべて使ってみる必要があります。

しかしそうすると、調査にはかなりの時間と手間がかかります。私が提出しているのは、彦坂尚嘉の主観が判断する言語判定法による判断だけです。これはあくまでも彦坂尚嘉という個人の主観が示す判断であって、それ以上のものではありません。

念の為に左右を入れ替えてみます。

門井幸子比較2.jpg

6次元                超次元

こういう微細な差異を、想像界の眼で見分ける事は、ほぼ出来ないはずです。10人中8人の人は,想像界だけの人格で、想像界だけの目で外部を見ています。想像界の人の目は、かなり鈍いものなのです。

人間精神の象徴界を使った言語判定法は、きわめて微細な差異を識別します。

門井幸子さんは、写真集の出版は2008年11月28日の日付になっています。私が見たマキイマサルファインアーツのグループ展『Layered Landscape』は、2008年6月-7月になっています。ですから普通に考えれば、この数ヶ月間の短時間に超一流の写真が6次元に落ちるはずはないと考えられるものです。しかし実際には、精神の変化は短時間に起きるものです。

もっとも、現在のホームページにアップされている写真と、本の写真と、マキイマサルファインアーツに展示された写真で、焼きが変わっていないのか? が、事実としては分かりません。

あるいは、単にブラウン管に見えるネット上で起きる差異なのか? いろいろの理由は考えられます。

現在の時点で、私の立場でいえることは、私の2つのブログで掲載されている2枚の写真は、現在でも超次元に見えるものと、6次元に見えるものの、2種類がある、という事です。

それを、私自身の門井幸子さんに会って話したり個展を見たりしている実感ですと、最初に会った時点と、本を出版してからとは、違ったという印象です。人間が変わったのです。本を出して、反響があったことで、彼女は変わったのではないか? そして写真も変わったのではないか? それが私の中で不可解な謎を生んで、芸術分析を繰り返していかなければならない違和感を生んだように私には思えます。

作家が変貌する例は、いくつもあります。
作家は変わるものなのです。

さて、以上が、門井幸子さんの作品に関する芸術分析の食い違いの問題で、今、私の書けることです。

糸崎写真の虚偽性について


もう一つの糸崎さんの作品に対する疑問ですが、疑問をもたれる事自体は、当然であると思います。

プリンスなどのシュミレーショニストの場合でも、必ずしも本人が作品を理解していなくて、後半崩れてきています。

糸崎公朗さん自身は、大衆芸術の作家であって、今、ご自分で制作した
「反ー反写真」シリーズは、あくまでも方法論と技術で制作しているものです。本人自身が、作品の良さを実感し、理解しているものではありません。

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糸崎さんの写真を疑う事はできるし、むしろ当然のことであると言えます。

しかし、私は逆に、今の糸崎さんの状態こそが、普遍的に作家の制作に現れている事のように思えるのです。つまり自分の実感の外で、方法論と技術で制作する事が、芸術制作であると思えるのです。そのように考えないと、ゴッホの場合にも、6年間くらいで8次元の凡庸な田舎作家が、急速に成長変貌して、超次元の作品を作り出すようになったのか? さらにゴーギャンのとの離別後の狂気と、それによる作品の水準の大崩壊が起きたのかが説明出来ません。

制作という技術と方法の問題としても、糸崎さんの作品は興味深いものなのです。

さて、ご指摘の、「単なる”なぞらえ”にしか見えない」部分はあります。しかしこの”なぞらえ”というのは、セザンヌの絵画にもあります。セザンヌの作品というのは、実はピサロをなぞって変貌して、できるのです。ピサロとセザンヌの関係を詳細に追った美術展は、ピサロの孫がキュレターで組織しています。

糸崎さんの「写真の奥にある、隠し難い素人臭さ」というのも、セザンヌの絵画にも、マティスの絵画にも、クレーの作品にもが目につくのです。だから、狩野恵輔さんのその判断は逆ではないのでしょうか。

単に形だけを真似していることが写真に表れています」というご判断も正しいとは思いますが、この評価も逆で、単に形だけを真似する事がすぐれた芸術の本質ではないでしょうか。それはセザンヌでも、ゴッホでも、その急速な学習と変貌を丁寧に見ていくと見えるものです。

ピカソのキュビズムの時期の9年間のレゾネが出版されていますが、それを見ていても、単に形だけを真似している」ことが生み出す創造性のすごさと、面白さ、そして空虚さが見えるものです。

形さえ真似すれば良いのだろうという小さながら開き直りのような、あるいは自分自身は作品とは無関係に存在し、セオリーどおりに作ることを密かに笑っているような、そうした軽薄さが作品に出ているのです」というご指摘も、同感です。が、しかし、そうではないものも出ています。街歩きの写真がもっている糸崎さんの空間把握の大きさや、微細なものをとらえる繊細さは傑出したものであって、その糸崎公朗表現の真実と、シュミレーショニズムの文化的な模倣性の形骸性が、2重映しになっていると、私には見えます。

僕にはむしろ彼の写真は形骸化しているように見えます」というご指摘も、同感です。特に、このような風景写真の形式は、芸術写真の何重にも繰り返されてきた模倣の連鎖が生み出している、風化し形骸化したものなのです。その形骸化を意識的になぞることで出現する糸崎写真の真実が、面白いのです。タランティーノの映画『キル・ビル』に見られるような虚実紙一重の世界の面白さなのです。形骸化した芸術風風景写真の虚偽の中に、糸崎さんの真実が、きらきらと、写真の隙間から見えるのです。

こうした面白さも、3年以内に、本質的な形骸化に見舞われます。ですから2年くらいで、写真集にまとめられないかと思います。がんばって欲しいものです。






タグ:門井幸子

門井幸子氏の写真再論 [アート論]

すでに書いているように、私は門井幸子氏の写真集を買っています。
個展も見ています。

そこで芸術分析をします。

しかし、すでにこのグログで私の記述が検閲と削除にあっているので、検閲する今日の権力者=大衆の目をかいくぐるためにも、大衆諸兄に分かるように書く事は止めにします。専門的な記述だけにしておきます。ですので、大衆諸兄には読み取れないものになっていますが、お許しください。

芸術分析そのものは、あくまでも専門家のためのものであって、一般大衆のためのものではありません。私も保身のために、専門用語だけの記述になっているとご了解ください。

さて、門井の写真を最初に見たのは、マキイマサルファインアーツでの山の写真でした。

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門井幸子の写真で、一番魅力的なのは、これら山の写真であったのですが、これは実は「ユメノシマ」vol.2 眠りにつくとき』という写真で、砂利の山か、ゴミの山かくわしくは知りませんが、それが自然の山のように見える所が私には面白かったのです。その錯視はしかし、必ずしも門井の目指すものではなかったように思います。

彦坂流の言語判定法での芸術分析は次のようになります。

彦坂尚嘉責任による[門井幸子の「ユメノシマ」vol.2 眠りにつくとき]の芸術分析


《想像界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザインエンターテイメント
《象徴界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザインエンターテイメント
《現実界》の眼で《第6次元 自然領域》のデザインエンターテイメント


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。

ただし《サントーム》は無い。


気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現。
ただし《プラズマ》化はない。


《シリアス・アート》である。ただし《気晴らしアート》性が無い。
《ハイアート》である。ただし《ローアート》性が無い。
シニフィアンの表現である。ただしシニフィエ性が無い。
理性脳の表現である。ただしと原始脳性が無い。

《原始平面》 ペンキ絵のような写真。【B級美術】


《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《形骸》《炎上》《崩壊》の概念梯子が無い。
ただし《世間体芸術写真》はある。
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《原-大衆芸術》はある。しかし《大衆芸術》《反-大衆芸術》《非-大衆芸術》《無-大衆芸術》という概念梯子は無い。
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《原イラストレーション》《原デザイン》《原シンボル》の概念梯子は無い。
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大衆芸術性がある。が、貴族芸術性は無い。
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作品空間の意識の大きさが《近代国家》である。

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鑑賞構造が無い。
写真としては《記録》である。

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情報量が50である。

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芸術分析をして、あらためて納得したのは、門井幸子の写真が、《原-大衆芸術》性のある世間体アート=《世間体芸術写真》であるという事です。

この場合、《原-大衆芸術》性があるにもかかわらず、。しかし《大衆芸術》《反-大衆芸術》《非-大衆芸術》《無-大衆芸術》という概念梯子は無いというところが、みそなのです。そして
《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《形骸》《炎上》《崩壊》の概念梯子が無いにもかかわらず、世間体アート=《世間体芸術写真》性だけがあるのです。この二つの結論がショートして成立しているのです。

詳細な分析で、はじめてこのようなサーカスのような構造で、しかも最短で、今日の「芸術風写真」の組み立てができることが理解出来ます。

そのことと想像界/象徴界/現実界ともに6次元のデザインエンタテイメントであるということが重なって、気持ちのよい魅力を形ずくっています。

もう一つ重要なのは、鑑賞構造が無い事です。写真が《記録》として撮影されているのです。記録というのは、ある種の科学写真のようなもので、芸術構造は無いのです。

鑑賞構造が無い事で、きわめて現代的に社会に容認される写真であると言えます。



 


タグ:門井幸子

入札がありました。 [気体分子オークション」]

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糸崎さんの作品に入札がありました。
ありがとうございます。

現在の入札価格:6,000円


第93回気体分子ギャラリー・オークション糸崎公朗「反ー反写真」個展♯6(改題) [気体分子ギャラリー]

糸崎公朗「反ー反写真」個展6

第93回気体分子ギャラリー・オークション
【締め切り12/20(月)】

  • 途中からで恐縮ですが、題名を変えました。オークションを作家の個展としてまとめて表示する事を、この糸崎さんの作品の提示の途中から考えつきました。という訳で、個展形式とシリーズ形式も交えて、このオークションを進めていこうと思います。改造中なので、過去の記事で改正していないものもあって、お見苦しい面がありますが、直しますので、ご容赦ください。こういう個展形式も交えると、ともっと多くの作家にも参加してもらえると思うのです。だからといって、何でもありという形は取りたくありません。あくまでも、気体分子ギャラリーのポリシーを形成し、まもって行きたいと思います。その条件は、このブログの当初は《41次元》性であり《
    超一流性
    》であったのですが、そのこだわりは変わりませんが、芸術分析も進化してきていて、今の時点で、一番重視するのは《原-芸術
    》性です。これについては、機会を見つけてブログで論を展開したいと思っています。

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糸崎公朗 「反ー反写真」♯6
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検閲と禁忌 [アート論]

某氏より次のようなメールをいただいた。

彦坂様


糸崎さんの作品の優れている比較に

◎◎さんを、とりあげてますが、

なぜ、それほど知られた写真家でもなく、糸崎さんの友人でもある彼女をわざわざ

比較例に挙げるのでしょうか?

ああいう写真家は他にもたくさんいます。




もちろん彼女は発表している作家ですから

批判も当然うけてしかるべきだというのは、わかります。


彼女の古い友人として、また、彦坂さんと知り合わせるきっかけをつくった立場としては、大変気が重く、心配です。

彼女は強がりをみせてますが、非常に不安定で脆く、面倒な人です。以前心身症で会社をやめてますし、鬱っぽいことも多々あります。写真に打ちこむことでやっとまえ向きな姿勢に、なれたところがあります。


理不尽な御願をうけてくださるとは思いませんが

できれば彼女の部分を除いて

いただき

とるにたらない作家として、

放っておいていただきたいと

切に願います。


最近自分の回りに、自殺に関することが多く

最悪の場合を想像すると、眠れぬ思いです。 



■■


個人メールをくださった■■氏は困った人だなと思いました。正当な要請とは思わなかったですが、記事は削除しました。こういうことは《検閲》であります。このことの重大性というものを、この個人メールをくれた■■氏は、理解出来ないのでしょう。そしてまた、作家は実は批判されて自殺するという事などは無い存在であるという事を理解していないのです。


実例として、批評で批判されてから自殺した作家をあげてみてください。私はそのように自殺した作家を知りません。作家というものは、外部からの批判で自殺するようなものではないのです。


それに、もしも◎◎氏が本当に自殺してしまったとしても、それは今日の日本の自殺者3万3000人分の1に過ぎない訳で、この多数の自殺者に対して誰も関与し得ないように、◎◎氏の死に関しても◎◎氏の自己責任であって、何人も関与はし得ないのです。作家というのは、自分の名前を出して社会的な責任を取っている存在ですから、その作家の自殺への危惧から、それをもって批評の自由を抑圧する事は、よけいなおせっかいであり、お門違いの事なのです。


ですから、もちろんこのような検閲を拒否し、削除をしないというのも、私の選び得る態度ですが、実際に削除を受け入れたのは、こういう要請をしてくる■■氏の、あまりに直接に生きている、その人生の苦しみの感覚に対して、私が答えようとしたからです。


作家の◎◎氏に対しても「とるにたらない作家として、放っておいていただきたい」と、たいへんに失礼なことを■■氏は書いている訳で、困った人だと思います。基本的な作家倫理や、他の作家に対する敬意の道徳心がないのです。


こういう疑心暗鬼で、実際の世間が動いている事は確かですが、これでは作家という存在ではありません。あまりにも人間的すぎるのです。ニーチェは『人間的な、あまりに人間的な』の中で、つぎのように書いています。


同情するものは自分は強者であると信じている。だから助けることができるとあらば、すぐにでも介入したくなる。


十分に自分自身を支配する力がなく、絶えざる自己支配・自己克服としての道徳を知らない人は、無意識のうちに善良で同情的な情動の崇拝者になってしまう。





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