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「目の不自由な人」のためのアート

もともと美術作品の価値というのは、多くの人にわからないものなのです。なぜに、そういう事態が生じるのでしょうか?

たとえばオリンピックでの競技は、採点が明確に出るので、善し悪しがはっきりしています。スポーツのすべてが誰にでもわかるというものではありませんが、ルールを理解して解説を聞きながらテレビを見ていれば、わかるようになるものです。

将棋や碁やチェスといったものも、ルールがわかれば、わかるようになるし、何よりも勝ち負けがはっきりしているので、その面では善し悪しがはっきりしています。

そういう意味では美術の場合にも、社会的に受けるとか、値段が高くなるという面で、勝ち負けを考えることはできるのです。そういう判断をすれば、理解が難しいということにはならないことになります。それが一つのルールであるということは言えます。

社会的に成功して、値段が高かったということでは東山魁夷は、すぐれたアーティストでした。だから優れているという風に理解すれば答えは単純で、人を悩ませることは無いのです。

問題なのは、東山魁夷を優れていると考えない人もかなりいて、どうも別のルールがあるらしいということがあるから、美術や芸術の判断がむずかしいのです。有名度ということや、売れた総額の高さではヒロヤマガタは、たいしたものなのですが、このヒロヤマガタも、美術家として評価しない人がたくさんいて、ここで問題が複雑になるのです。

難しいと入っても、その時代その時代で、日本の美術界には空気のようなものがあって、流行のように評価の流れが変わっていきます。日本には日本固有の評価の蓄積があって、それも時代によって、少しずつ変わっていきます。私が中学生の時代には、黒田清輝の作品には、厳しい批評的な批判があったのですが、今日ではむしろ黒田清輝を高く評価する傾向があります。同じようなことは長谷川等伯の「松林図」に対する評価や、伊藤若冲にたいする人気が、かつてとは比較にならない高いものに変わってきています。そういう意味で、評価もまた時代の流行であり、空気であると言えるのです。

この流行の変化は重要なことで、それを無視することはできません。流行は昔からあったことで、たとえば東洲斎 写楽がデビューした



美術評論家とも、何人も親しくさせていただきましたが、多くの美術評論家は他人の意見を聞いて、時代の空気や、世間体で判断しているのであって、美術や芸術の原理に照らし合わせながら即座に自分の判断をなし得る美術評論家は、きわめて少ないのです。


コレクターも同様で、自分の美意識を持っていて、即断していけるコレクターというものは、非常に少ないのです。
気体分子ギャラリーで買ってくださっているコレクター諸子は、新作を1週間の時間制限の中で判断しているのであって、それは時間制限の即断ゲームとして、過酷な芸術判断ゲームなのです。

多くの人は、それこそ草間弥生のカボチャが2〜3万円の時には買わなくて、400万円になると買うのです。
買い物をするということは、きわめて難しいことなのです。金持ちは、芸術を安く買おうとはしないものです。高いものを買うことに意味を見ているのです。
蕩尽(とうじん)としての美術品の売買です。
蕩尽(とうじん)というのはお金を使い果たすことです。お金を使うということに、喜びを感じる精神状態です。


乱費することが目的のアートコレクションは、それはしかし愚かなゲームであって、優れているコレクターは、安いときに自分の判断で、優れたコレクションを安くつくって、将来的に高く売るのです。

コレクションというのは、将来的に転売をしていくものだと思っています。
実際、私の最初のコレクターは、10万円で作品を買って、600万円で売っています。こういうマネーゲームが美術作品の醍醐味であって、テーマ性をもったコレクションの形成は、実は創作活動なのです。

私が最初に美術品のコレクションの実際を学ぶ美術館は、大阪市立美術館でした。ここには大阪商人が爪に火をともすように節約しながら買い集めたコレクションが多くあるのです。その中で最大のコレクションが阿部コレクションで、中国美術の大コレクションです。

大阪市立美術館の中にある一つのコレクションは、ロダンと、ブルーデルと、マイヨールの3点の小振りのブロンズ彫刻を1組として作ったものです。良いもので、私は、こうした集め方にコレクションの創造性を見たのでした。

美術作品は、アーティストによって作られるのですが、しかしそれはコレクターが買って、コレクションされるということによって、作品が完成し、成熟していくのです。買われない作品の多くは破壊されますが、売買された作品は残っていく率が高いのです。そういう意味で、コレクターの役割は、非常に大きなものがあります。

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人間は、決して平等ではありません。それは不愉快なことですが、各人には遺伝子の差があるように、能力の差があるのです。能力の差が、実は別の能力を授けているのです。これは学校教育で、成績の差として、小さいときから教え込まれています。それは成績の差だけでなくて、人格の差としてあって、その差は驚くべき大きな差としてあって、同じものを見ても判断の仕方は、天と地ほどに違います。この差というのは、目の不自由な人と、目の見える人の差なのです。しかし目の見えない人の方が、音感の能力は発達しているとか、目が見えないというハンディを乗り越えた別の能力を発達させてもいるのです。

早くに判断できる人と、できない人もいるのですが、これも目の見えない人の問題で、目の不自由な人は、判断ができないのです。
判断の早さは、目が見えるという才能の差なのです。
早い決断ができる人には、見る能力があるのです。

同時に判断できない人や、判断の遅い人は、目が不自由であるゆえにこそ発揮する別の能力があって、地道に積み重ねる違う力を発揮するのです。

しかし判断力の遅い人は、悪く言えば「目の不自由な人」であるのです。それが大衆なのです。大衆は判断が表面的で、ものの中心の本質を見えないのです。大衆の目は、物事の本質に対しては目の不自由な人であって、見えないのです。

大衆の判断は遅いというよりは、判断をするリスクから逃げいている人たちが大衆です。大衆は責任をとらないのです。責任をとらないからこそ、自分の身を守り、充実した生き方をすることができているのです。大衆は無責任んであるという意味ではずるいのですが、しかし人間として動物的に生きることにおいては、幸せなのです。

それはですから、過去の自分の判断の間違いからも逃げます。責任を取りたくないのです。責任を取りたくないから、実は決断ができない、だから物事の判断ができないのです。つまり判断というのは、実は責任を取って生きている人にしかできないのです。しかし責任を取るということは、つらいことです。

少し昔、一億総中流の時代に、これら中流の人々は美術作品を買いませんでした。

中流というのは、実は責任をとらない大衆の群れであって、賃金制度という今日の労働制度の中に安住する人々だったのです。

彼らには個人名はありません。自分の名前が出るのを、異様におびえます。隠れて生きていきたいのです。だからこそ、自分の安全を守り、人生を大切に生きることができるのです。

大衆というのは無名の人々です。
無名で凡庸な人々こそ、普遍存在であるのです。人間として生きる普遍性は、こうした無名性の中にあるのです。

そして大衆という無名の人々は、美術作品を買う能力はありません。
どれほど安くても美術作品をコレクションしていくことはできないのです。

大衆は実用品ならば買えても、鑑賞芸術は買い得ないのです。それは芸術を鑑賞するという目を持っていない、目の不自由な人々であるからす。無名の存在の中で、自分の身の安全を守っていると、実は「見ざる、言わざる、聞かざる」という三猿の状態にいるので、目が不自由であり、耳も不自由であり、口も不自由であるのです。こういう三猿状態にいると、芸術作品を買う必要を生ずる精神状態にならないのです。

大衆の精神状態は、ラカンの用語を彦坂的に使えば、想像界しかもっていないのです。そういう人が圧倒的に大衆には多くて、これらの人々は美術作品を買うことはしないのです。間違えて買っても、作品を鑑賞することができないのです。想像界のひとは、芸術に対して異様に怯えを持っています。なぜにおびえるのか?

大衆というのは、賃金奴隷であって、首に縄をつけられた家畜ですから、外部を広く自由に見ようとはしないのです。従ってその視覚には制約があって、見えないのです。自分の外部世界を理解しようとすれば、想像界の精神だけでは、物事の枝葉しか見えなくて、物事の中心が見えません。物事の中心が見えないが故に、自分には見えないものを見ている人々に怯えを思っていて、自分には見えない世界を作品として提示してくる芸術に恐怖を持っているのです。


それに対して、中流よりも少し上になると、様相はかわります。自分の生活の中に、それなりに美術作品をかけて生活している人の家にいくと、その生活は、美術を買わない人とは、まったく違う生活なのです。

美術を買わない大衆のための美術を作るべきなのか、それともそのような人々を無視して、美術を買い人々だけに作品を作るべきなのか?

この問題は、きわめて難しいことなのです。

その問題を、別の比喩から話しましょう。
文字の読めない人がいます。昔は「文盲」と言った人々です。「文盲」というのは、今日では差別用語であるとして使えなくなっていて、今日では「非識字者」と言います。今日の日本にも多数存在しています。

こうした「非識字者」に向かって、小説家は小説を書くべきなのでしょうか?

こういう比喩で言おうとしているのは、芸術の見えない人がいるからです。それを「芸術盲」、「藝盲」あるいは「アート盲」と言います。さらに難しく言えば「非識藝者」です。こうした「アート盲」の人々に向かって、アーティストはどのように作品を作るべきなのでしょうか。

「アート盲」というのは、ある種の盲人であるということです。「盲人」というのも差別用語になっていて、使っては行けない言葉ですので、「目の不自由な人」と言い換えます。実はアート作品を決して買おうとしない日本の大衆というものは、実は「目の不自由な人」の集団なのです。日本の大衆は、芸術が見えないだけでなくて、実は国際情勢も、国内情勢も見えない「目の不自由な人」なのです。ここ言う日本の大衆という中には、今の首相の菅直人も入っています。彼は「目の不自由な人」で、外部が見えないのです。「目の不自由な人」が自動車の運転をしているように国家を運転しているのです。

つまり芸術の見えない「藝盲」というのは、同時に政治の見えない「政盲」であり、そもそも現実が見えない「現盲」なのです。日本の大衆は「現盲」であるから、菅直人のような「現盲」の首相を成立させたのです。つまり日本は「目の不自由な人」の国であるのです。

では、このような「目の不自由な人」の国で、どのように生きていけば良いのでしょうか。

小説家であれば、「非識字者」

装飾を芸術だと、勘違いしている作家も、昔も今日も多くいて、装飾を買う人もいるのです。それは、美術のニーズとして間違ってはいませんが、そのニーズと芸術は違うのです。装飾を受け入れた基盤で、装飾を否定して逆率するところに芸術は成立するのです。このメカニズムは単純なのですが、このことを理解する人は少ないのです。




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