So-net無料ブログ作成
検索選択

第72回気体分子オークション(11/17終了) [毎日オークション]

第72回気体分子オークション(11/17終了)

Collapse《崩壊》/Performance:Veil of ignorancea(Dark) .jpg
クリックすると大きくなります
101112_01
Collapse《崩壊》/Performance:Veil of ignorance(Dark




お客さんから次のようなメールをいただきました。

彦坂さま。


携帯のメールで失礼いたします。


今回の“無知のベール”による三点は、幾らからの入札になりますでしょうか。



【◎◎◎◎】


彦坂の返信です。


◎◎◎◎様 お問い合わせありがとうございます。ちょっと制作論で大きな転換があったので、無知のベールは、再度アップして行きますので、次週にご検討ください。どうぞよろしくお願いいたします。 気体分子ギャラリー 彦坂尚嘉


制作の転換をします。この一つ前のブログで書いたように、日本社会の構造に対する認識が変わったので、作品も変わるのです。それは文章を書く時に、読み手の設定を意識することが重要名のように、美術作品も、その観客設定が重要だからです。ピカソの場合には、コレクターによって作品を変えているのですが、これはピカソの残した手紙と作品展開の研究から分かっています。こうした事を馬鹿にしたり否定する純粋芸術至上主義の人が多くいる事は知っていますが、私はそうした純粋主義を間違いだと思っています。さて、そういうわけで、作品を再制作してアップし直します。


2点、つくります。お手本にしているのはマティスのつくりわけです。伝統的な作品と、非伝統的な作品の2種類をつくるやり方です。




【続きは下記をクリックして下さい】

 




 


続きを読む


日本現代美術/現代アートの特徴についての私的な発見(校正1加筆1) [アート論]

日本の新しい現代アートというのは、何であるのか?

こういう問いを前にして、64歳の彦坂尚嘉は、簡単には答えられない古き者としての限界を露呈させているのです。限界があることは認めつつ、しかし自分の感覚と思考と、そして多くの先人の書物を読む事で、なんとか現在をとらえようとする努力を私は継続しているのです。その内容は、現場にいる若いアーティストには考えもしないところからの思考ですから、若い人が読んでも面白く無いだろうと思います。

とは言っても、今、私の話し相手をしてくれているのは、私の同世代ではなくて30歳以上も年齢のはなれた若い人です。ブログを読んでくれているのも、若い人で。同世代で、昔は友人であった人々は、彦坂の言う事は理解が出来なくて、読んではくれないのです。ですから、奇妙な事を言う私の文章を読まないという人がいても当然ですし、さらに反発や批判をくださればなおさら歓迎します。
 
私には奈良美智さんでも村上隆さんの作品でも、さらには会田誠さんの作品も、キッチュであるという風に見えます。他の若い作家も、日本の場合は、ほとんど多くがキッチュに見えるのです。

キッチュというのを、否定語であると一方的に受けたらないで下さい。キッチュというのは大衆芸術であって、それはまた人間としての正統な根拠を持つ表現だと私は考えています。

キッチュというドイツ語出身の言葉も受け付けない若い人も多いのかもしれないので、別の言葉で言い換えると、直接的であると見えるものです。

直接的な感覚で作品を理解できるという、そういう作品がキッチュです。知的な教養や分析抜きで理解できるものであって、そういう表現の平明さや理解しやすいものが、キッチュと言うドイツ語で呼ばれてきました。

反対なものとしては「高尚な芸術」というものがあります。それは間接的で、純粋で、抽象的な美術です。つまり「抽象的な芸術」であるのです。

グリンバーグの代表的な文章に『アヴァンギャルドとキッチュ』という文章がありますが、キッチュというのは直接的な無教養な芸術で、アヴァンギャルドというのは教養のある抽象的な芸術です。

ここに教養の有る無しが出て来て、怒る方がいるかもしれませんが、実際に勉強ができて教養の深い人たちと、勉強ができず、成績はわるくても、人間として多くの人との同質質性を持っていて、そうした十全に普遍的な凡庸さを持って生きている人々という、2種類の人間がこの世にはいるのです。
 
さて、話を分かりやすくするために、日本の現代アートに限って話を進めます。実はもっと話を広げて、アメリカ美術や、中国美術、そしてインド美術や、アフリカの現代アートも論じても良いのです。そうしたところで、同じ結論にはなるのです。が、話を分かりやすく、そして短くするために、日本の現代アートに限定しておきます。
 
では、日本の現代アートというのは、何であるのか?

この質問は同時に、日本社会とはどういう社会なのか? というむずかしい問いも併せもってくる質問なのです。

簡単に分かりやすく日本の社会を言いますと、日本社会は共産主義の社会だったのです。
精確には隠れ共産主義国家だったのです。
これは私の意見ではなくて、『「超」整理法』 (中公新書)という本をベストセラーにした野口悠紀雄氏の意見です。

ハウツー本の人物などいかがわしいと思わないで下さい。野口悠紀雄は東大出の経済学者で、元大蔵官僚の人物です。1972年にはアメリカのエール大学で経済博士号を取得していて、東京大学教授であったという、勉強が良く出来たエリートの学者であるのです。

つまり真面目な日本経済の学者で、1995年に『1940年体制―さらば戦時経済』という本を書いて大きな影響を与えたのです。『1940年体制』という本によると、太平洋戦争を遂行した日本の「革新官僚」たちというのは、マルクスを読んでいた共産主義者たちであったのです。当時の国会でも「官僚は赤ではないのか?」という質問があったのです。

日本のファシズム体制というのは、言い換えれば国家社会主義であったのであって、社会主義ですから、当然のようにマルクスの影響を受けていたのです。アメリカとの戦争を遂行し、大政翼賛会を主導した日本の官僚は、金持ちが強くなるのを危惧して、相続税などを重くして、日本を総中流の社会にしようとして成功したのです。

この平等主義の方針は、敗戦でも変わる事無く続いて、その中心には1939年にナチスの銀行法をお手本にして作った銀行法があって、これが戦後も作動し続けて、護送船団方式と呼ばれる金融政策で、これが成功して戦後の高度成長社会をつくりあげたというのです。一億総中流の日本社会というのは、日本ファシズムを推進した官僚たちの共産主義の理想が実現させたユートピアであったのです。
 
だとすれば、日本の美術というものも、社会主義美術の構造を持っているのです。が、私はこのことに気がつかなくてきました。なかなか物事を深く理解するのはむずかしいのです。すぐには頭が作動しないのです。気がつかなかった理由は、まずは、野口悠紀雄氏の『1940年体制』を読まない前は、日本社会が社会主義体制であったことを知らなかったのです。日本は自由主義の社会であると思っていました。ですから、自分があくまでも自由主義美術の教養の中で育って来たと信じていたということがあります。
 
もう一つは、私の芸術分析というものは、当初《第41次元》までしか視野に入っていなくて、《41流》までしか見えなかったのです。分析が進むと、《第41次元 戦争領域》というのは、実は《第50次元》まであるということが分かってきまそた。その後、この次元というものが、Photoshopの使用と連動させられることが経験の中で分かってきます。Photoshopを使っていない多くの人には理解してもらえない話ですが、Photoshopというのは、人間が生きている次元に対応する階層構造を、比喩的に示しているのです。写真そのものは、未加工である最初の状態が、多くは《第6次元 自然領域》です。機械はそのように設定されているのです。コントラストを11上げると、《第1次元 社会的理性領域》の表現にアップします。この比喩の極限を追いかけると《第100次元》まではつくりだせるのですが、それ以上がどうやってもできない事が分かりました。つまり《第100次元》という多層性が、世界の多層構造の限界であるかもしれないのです。
 
そういう実験での成果を背景にして、山本藍子氏の作品の個展を気体分子ギャラリーでやった時に、《第100次元》の具体的な山本藍子作品に見いだします。
 
初め、この《第100次元》の出現は、音楽で追いかけるとマライヤキャリーなどソヴィエトが崩壊した1991年以降の音楽に見いだされたので、ソヴィエトの崩壊と強く連動した現象と考えられました。
 
しかし、古い雅楽という日本音楽に、なんと《第100次元》まであることを見つけて、さらにヨーロッパの中世音楽に同様のものを見つけました。こういう中世のⅠ00次元性の発見で、実は《近代》以前の中世世界には、《超次元》から《第100次元》までの全領域があったことを知りました。

それが、《近代》になると、《超次元》から《50次元》までの自由主義世界のアヴァンギャルド芸術と、《51次元》から《第100次元》までの社会主義リアリズム=キッチュ芸術との、2つに分裂したのです。こういう2極分解をしたのが、冷戦構造をその特徴とする《近代》であるということが理解できるようになりました。
 
つまり《近代》というのは、世界を2つに割った東西冷戦構造であり、この2つに分裂させるやり方は、グリンバーグの『アヴァンギャルドとキッチュ』という論文の指摘通りに、実は文化そのものの構造を、2つに分裂させた事であったのです。

文化が2つに分裂していたのです。それが《近代》です。つまり「高尚な芸術」と、下品な「大衆芸術」に分裂していたのです。文学で言えば、《純文学》と《大衆文学》の2分化です。つまり芥川賞と、直木賞に分裂して、2つの文学=芸術があったのです。
 
ここまで分析や理論が進んでも、まだしかし、日本の戦後美術が社会主義リアリズムと同一の構造をしていることに気がつきませんでした。
 
最近、国立近代美術館で開催され上村松園展を見て、戦前の日本画を見直すと、たとえば横山大観の「屈原」などには《超次元》から《第100次元》までの全領域が見いだされた事に気がつきました。つまり《近代》という時代が2つに分裂した時代であると定義されるとすると、日本の日本画は、実は近代絵画にはなっていなくて、中世絵画の延長であったと言えることになります。戦前の日本画が、実は中世絵画であったということは、もしかすると日本画だけではなくて、国家神道に支配されていた日本社会そのものが、実は近代社会ではなくて、中世社会の延長であった可能性を示しているのかもしれません。確かに、戦前の日本社会の奇妙な固さは、中世のそれであるのかもしれません。

日本社会が近代化したのは、もしかすると敗戦後であったのかもしれません。そして日本の現代美術が近代美術としての2極分解を体験したのも、戦後であったのかもしれません。こうしたことをぼんやりと考えていました。
 
こういう認識を背景に、《近代》の終わった現在の情報化社会では、自由主義と社会主義の合体が進んでいると考えるようになっていました。つまり1991年のソヴィエトの崩壊とともに、近代の2極分解構造が終わって、2つの世界は統合されるようになった。

具体例としては建築家のコールハースがいます。コールハースはニューヨークのマンハッタンを歴史的に遡行して分析した『錯乱のニューヨーク』でデビューするとともに、ソヴィエトの共産主義建築を学んで、この自由主義と共産主義の2つの建築を合体して行く形での大規模建築を成功させて行ったのです。

こういう建築的な事実を背景に、情報化社会の美術は、再び《第100次元》までの総合性をもった芸術ではないかと考えていました。

そして自分のパフォーマンスの記録写真を、写真作品にしようとして、Photoshopで加工して、《超次元》から《第100次元》までを持つ作品にしたのです。

ところが、それを何人かに見せたのですが、反応が極度に悪い。
 
そこで、より分かりやすくするために、《第6次元 自然領域》にまで落として、それを出力してみると、思ったよりも良かったのです。そこで調子に乗って、さらに商業主義を押し進めようと考えて《第16次元》までに落として出力してみると、極めて分かりやすい作品になったのです。

この時点で、私の肉体が反応を起こして、嫌悪感が強くなって、フリーズして、1日寝込む事になりました。
 
嫌悪感の中でで分かった事は、作品が極度に社会主義リアリズム化していたのです。それは同時に、キッチュになっている事です。あまりに分かりやすく、単純になっている直接性に対する嫌悪感を、私の身体が極度に反応したのでした。

芸術分析的に言うと、《第16次元》と《第51~100次元》がある作品になったのです。
 
 
《第51~100次元》というのは、キッチュの領域です。直接性の強い、原始的な感覚の次元です。
 
ここまで来て、奈良美智の作品が気になって、芸術分析をやり直してみました。そうすると《第6次元 自然領域》とともに、《第51~100次元》があるのです。まえに行った時に奈良美智の作品の芸術分析では《第6次元 自然領域》であることは分かっていたのですが、その裏に《第51~100次元》があることは気がつかなかったのです。
 
さらに村上隆を芸術分析してみると、《第13次元 喜劇領域》とともに、《第51~100次元》があったのです。これも前には気がつかなかった構造でした。
 
さらに岡本太郎の作品を芸術分析すると、同様に《第6次元 自然領域》とともに《第51~100次元》があったのです。つまり戦後の日本の現代美術は、実は背後に《第51~100次元》というソヴィエト的な社会主義美術のキッチュ性を潜在させていたのです。
 
日本の現代美術/現代アートの多くは、実は社会主義リアリズムと同様なキッチュアートであって、《第51~100次元》を持っている。つまり直接性に依拠した表現であって、しかも既知の感覚に依拠した保守的な美術である問う事が分かったのです。

野口悠紀雄氏が指摘したように、日本社会が1940年体制であって、それが共産主義社会であったとすれば、日本の戦後の現代美術の作品が《第51~100次元》を持っ社会主義リアリズム的なキッチュであったとしても、当然なのです。

《第51~100次元》を持っ社会主義リアリズム的なキッチュな現代美術/現代アートというのは、言い換えると基本的に連続テレビドラマの水戸黄門や大岡越前、そして寅さんを愛する感覚と地続きの表現なのです。

こうした表現を好む人は、自分の知っている直接的な感覚世界だけを愛して、抽象的なものや、現実から離脱したものを理解できないのです。

日本の大衆が持つこうした直接文化的な傾向を、否定的にだけ語っているわけではいかないのです。むしろこうした保守性や、直接性にこそ、日本人の良き人々としての人間の本質が示されていて、ここにこそ日本人の固有性があるのです。

同時に、こうした日本人の固有性の外に出る試みもまた、重要なのです。日本人の殻に閉じこもっているだけでは、新しい世界はこないのですから。日本人の固有性と外部性の、2つが追求される必要があるのです。

尖閣諸島沖の衝突事件に象徴されるように、日本の政治は外交力を欠いていることを露呈していますが、それは日本人が外部化していないからです。自分自身の外部にでない限り、外交を理解する事は出来ないのです。

同様なことが美術についても言えるように思えます。《第6次元 自然領域》と《第51~100次元》だけでは、美術の外部を理解した事にはならないのです。日本美術の固有性を認めるとともに、この外部の存在を知る必要もあるのです。
 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。