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工藤哲己 [アート論]

返信をありがとうございます。

そうでしたか。鋸山のレリーフの製作現場の(吉岡氏撮影による)記録映画は、ウナックサロンから出ているビデオを、加藤力君から学生の終わりがけの頃にダビングさせてもらい、私も見ています。では、あの、映像の中で工藤さんにつっかかるように話していた若者群像の一人に、もしかしたら彦坂さんもいらっしゃったのかもしれないのですね。しかし、私はもしかしたらそうなんじゃないか、という気もなんとなくしていました。

75年のパリでの会食の風景は、目に浮かびます。私の体験とも重なるということもあり、立体的映像的に想像ができます。そうですね。工藤さんとは、そういうお茶目なしかけをよくする人だったと思います。が、入口は似ていたとしても、私の場合は、そのようなあっさりした付き合いで終わる性質のものではなかったように、振り返り思います。

実際に生身で接した期間は、私が芸大大学院・工藤研究室在籍中の89〜90年の2年間と,ごく短いにも関わらず、工藤さんの存在は私の中で、その後も長く尾を引きました。また、タイミングということもあります。

普通に言えば、私は大学を出て人生の本格的な門出をするべき次期。90年11月12日、その日は現在の天皇の即位の礼の日だったようです。私はそれほど興味がなく、文京区千駄木のアパートでテレビ映像を通して、ああ今日がそうなんだ位の気分で漫然と過ごしていました、その日の夜に研究室の助手から「豪、ごめん、工藤さん亡くなったよ。」との電話を受けた。助手が第一声、私に謝罪したのは、大学院の2年次に入ってからというもの、工藤さんが入院し病気療養中のため大学にはしばらく来れないとの情報を教官室からは得るのみで、続報もぱったり無く、その期間がけっこう長く続いたので、不審に思った研究室第2期生である私と、第3期生だった福士朋子さんが一緒に教官室に度々問い合わせに行ったということがありました。その折に助手からは「大丈夫、大丈夫。病気はそんなに大したことないらしいよ。」という返事しかもらえませんでした。しかし助手がなにも義務を怠ったということではおそらくなく、おそらく助手も、詳しい情報を工藤さん側から遮断されていたのではないかと私は推測します。しかし私は勘で、きっとそういうことではない筈だ・・と、感じるものが自分の中にあったからこそ、度々問い合わせに行ったのだと思います。

工藤さん没後、ウナックサロンからの依頼により、そこで定期刊行している小冊子において、研究室在籍1〜3回生の全9人に、作家工藤哲巳が大学での教師としてどうあったのかを、各人文章で証言して欲しいという依頼がきました。ほぼ全員がこの依頼に応えた中、私のみが、これには返答しませんでした。
後日、大学の帰り路にばったり会った、学部4年時の担任だった榎倉康二さんから、件の小冊子について問われ、書かなかった私に、「わざとか?」と、若干の笑みを含んでしかし真面目な口調で言われた記憶が今でも残っています。確かに、わざとかもしれないし、正直書けなかったから、かもしれません。
しかし、義務は勿論感じます。それこそ、今この彦坂さんのブログの他のコメント欄で議論されている、というよりは彦坂さんがほとんど単独で提起なさっている、公の問題ですね。思えば、工藤哲巳という美術作家の最後は、あまりにも不明瞭です。美術作家が公人であるという問題と、もう一つは芸大は勿論国立であるので、芸大創立120周年の記念事業の一部として、新たに創設された大学院第8研究室に誰を招聘するか?となされた議論の中で(その議論は、日本の黄金のバブル期のまさにピークの季節になされた筈です)、このさい刺激剤を注入しようとの意見の一致により、工藤哲巳が選ばれた、と聞いています。岡本太郎の名前も、その前には上がっていたとも。その第8研究室は現在、先端芸術学部を新たに創設する際の、予算の工面の必要の一部として消滅したと聞いています。空間が消えることに対し、私はあまり何も思わないのですが、歴史,その意味が問われず、黒塗りの状態のままにあることを私は望むものではありません。彦坂さんのブログを拝読していて、彦坂さんの歴史というものに対する真摯な態度を私は信頼するに値するものと、感じるに至りました。作家・工藤哲巳についての真摯な議論に、是非参加させてもらいたいと私は思っています。

私の側から提起可能なのは、72、73年頃に連作された『芸術家の肖像』あるいは『危機の中の芸術家の肖像』と題名が冠されたシリーズを、とりあえず俎上の中心に乗せてみてはどうかということです。彦坂さんの、工藤作品は6流のイラストであるという観点でまず、ずばっと切ってしまえば、いい意味での省略した議論が可能かとも思います。(立体ですが)そこに描かれているのは、鳥籠の中で年老いた芸術家が半ばより目になって筆で何かに綺麗な色を塗っている。よく見ればそれは糞便である、といったような情景。人間疎外論的な図式をできるだけ分かりやすくイラストで提示している作品。われわれ芸術家はまさに「世界をよくする」つまり「良い作品」を作り経済活動に奉仕する為だけに大きな全体のシステムに飼われた存在であると。そのようなアイロニー表現が出てくるのは、勿論、そうではない筈だという作家の本心背後にあるからです。

たとえば、このような導入ではどうでしょうか?
もしこれにコメントを彦坂さんが還してくだされば、(工藤さんから私が直接投げられた言葉の証言も交えて)、私もそれに答えていくことができます。

文章遡りますが、タイミング、ということでもう一つ。村上隆氏は科は違い,学年も2年ほど先輩でしたが、当時の学生であった私の視界には何かを始めようとしている姿として既に入っていました。

私は作家の会田誠、小沢剛と芸大油絵科で同級であり、私は彼らその他数名を束ねて,学内で『白黒』という同人誌を主宰していました。会田誠は主に漫画、また、トイレ覗きの実体験(=本人の話によると、逮捕歴もあるそうです)を短歌に詠んだものや女装写真などを、私は小説や宣言文など、また小沢剛の地蔵建立の写真のシリーズも、この『白黒』という同人誌に掲載するところから始まっています。紙代・インク代を自分達持ちの約束で、大学の印刷機を使わせてもらっていましたので、顧問という形に、榎倉さんになってもらい、その他いろいろと迷惑もかけ、たいへんお世話になりました。

このメンバーで学内展示も開催し、タイトルが『団結小屋』(私がのちの95年に参加した世田谷美術館での長谷川祐子氏・企画『デ・ジェンダリズム』展のカタログの英文履歴欄には"Unity in a Hut"としてもらっています。)

この『団結小屋』展を見た榎倉さんが「お前らいいよ、このメンバーでやれよ」とわれわれを強く後押ししてくれ、工藤さんも剣菱を二本携えて初日に来てくれるなど、われわれは皆たぶんそのようなまわりの反応に気をよくしていたのですが、結局私の卒業式の日の宣言により、このグループは解散しました。この切断の意味を、今でも考えています。すべては切断の中にある,そのような気がしているのです。

90年〜91年。私たちの、その地点での表現者としてのスタンスは、一体どのようなものだったのかを考えます。言葉にすれば、一体「何」によってわれわれは群れとしてかろうじて繋がっていたのか?と。今分かるのは、その「」に当てはまるのは「アイロニー」ではないかと思います。
題名『団結小屋』とは、勿論アイロニーでした。たしか、会田の作品集の中に、この時皆で作ったポスターの写真が載っていたと思います。私が中央に団結小屋と毛筆し、他のみながその回りにイラストを寄せ書きのように配置しました。鉄塔の先端に、小屋がついているような、漫画です。幼児に、カラーテレビで見たニュース映像のイメージが(モノクロのサインペンにより)ここでは再現しているのです。われわれは高級な芸術の意味なども分からず、ただそういうものが既に失効したという空気だけを「読ん」で、あるかどうかも分からない架空の「本物」を上から、または下から?眺め下ろしせせら笑うことで、過去の歴史の優位に立とうとしていたのではないのだろうか。彦坂さんは、そのような現代の態度のありかた全体を称して、婆娑羅と呼んだのではないかと私は考えています。これについても、今後さらに考えていきたいと思っていますので、意見交換させていただければ幸いです。

by 彦坂様 (2010-12-20 22:04)  

加藤豪

上の文、敬称を略して送信してしまい、失礼しました。
(自分の名前欄に、間違って書いてしまっていました。) 
by 加藤豪 (2010-12-20 22:13)  


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