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第93回気体分子ギャラリー・オークション糸崎公朗「反ー反写真」個展♯6(改題) [気体分子ギャラリー]

糸崎公朗「反ー反写真」個展6

第93回気体分子ギャラリー・オークション
【締め切り12/20(月)】

  • 途中からで恐縮ですが、題名を変えました。オークションを作家の個展としてまとめて表示する事を、この糸崎さんの作品の提示の途中から考えつきました。という訳で、個展形式とシリーズ形式も交えて、このオークションを進めていこうと思います。改造中なので、過去の記事で改正していないものもあって、お見苦しい面がありますが、直しますので、ご容赦ください。こういう個展形式も交えると、ともっと多くの作家にも参加してもらえると思うのです。だからといって、何でもありという形は取りたくありません。あくまでも、気体分子ギャラリーのポリシーを形成し、まもって行きたいと思います。その条件は、このブログの当初は《41次元》性であり《
    超一流性
    》であったのですが、そのこだわりは変わりませんが、芸術分析も進化してきていて、今の時点で、一番重視するのは《原-芸術
    》性です。これについては、機会を見つけてブログで論を展開したいと思っています。

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糸崎公朗 「反ー反写真」♯6
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コメント 6

加藤豪

ハンドルネーム「ふしぎちゃん」改め、加藤豪。

以前に、ラカン派精神分析の解釈について、何度か書き込みさせていただいたことがあります。美術作家です。

今回の、糸崎公朗さんの「反ー反写真」のシリーズの作品の掲載記事、第一回目から興味深く拝読させてもらっています。糸崎さんの写真はどれも、空間・写っている「もの」も共にとても美しく、彦坂さんが書いておられるように、見ていて中々飽きない、消費されない。しかし、これは一般的な意見とはもしかしたら異なるのかもしれませんが、私の感覚には、糸崎さんの写真は(見た刹那の)瞬間的な刺激も欠いているわけではなく、一瞬の刺激と、長く見ていられるオプティカル・イリュージョンとしての深さが、同時に存在しているように、私には感じられました。

また、彦坂さんの、残念ながら削除されたという記事にあった記述だったかと思いますが、末尾に、糸崎さんという大衆芸術の専門家が高級な芸術をシミュレーションする欲望を持つという、ここにはある種の倒錯があるという内容の箇所があり、この記述に私は大変に注目しました。そして、考えました。
もしそれが倒錯ならば、その倒錯とは、一体何でしょうか? 彦坂さんの歴史主義的観点においては、人間の精神の原始状態から、文明の段階への飛躍の過程で、低い次元の漫画的・デザイン的表現から、高い次元の透視画面的・オプティカルイリュージョンの世界が出来した筈で、順序として私もその逆はないだろうと一応考えるので、倒錯というべきは、現代の文明状態にありながら原始状態への回帰の欲望を持つ(と同時に高級な芸術を婆娑羅的に嘲笑う)、またその趣味を持つ、ということだった筈なのが、そこからさらにもう一度、というのは・・、よく考えると,私も正直なところよく分からなくなってきました。倒錯の倒錯は,正常、という単純なことには、私はならないと思います。では倒錯の倒錯は倒錯なのか?

最後に、個人的なことですが。
私の恩師は美術作家の工藤哲巳であり、私は長らく工藤哲巳の呪縛の中にあったという自覚があります。彦坂さんによれば、糸崎さんも長く岡本太郎の呪縛の中にあったとあり、この点についても、感慨深く思わされました。
私の中では、岡本太郎と工藤哲巳は、縄文イデオロギーという点で共通項があります。
by 加藤豪 (2010-12-19 01:39) 

ヒコ

加藤豪様

興味深いご意見のコメントをいただき、感謝いたします。私も工藤哲己氏とは面識があって、1969年ですが、工藤氏、そしてカメラマンの吉岡康弘氏、ウナックサロンの海上雅臣氏とともに、千葉県の鋸山に制作した工藤氏の岸壁に掘った大彫刻を見に行っています。

1975年のパリ青年ビエンナーレに私が参加したときには、工藤氏が来てくださって、お食事を一緒にしました。私を困らせようと、牛の血を腸詰めにしたものを食べさせられましたが、これがおいしくて、私が舌鼓をうっているのを見て、気持ち悪かられました。それが最後で、私自身は、工藤氏への興味を失いました。

しかし、工藤氏の作品をもう一度検証すべきであるとは思っています。
by ヒコ (2010-12-20 04:03) 

彦坂様

返信をありがとうございます。

そうでしたか。鋸山のレリーフの製作現場の(吉岡氏撮影による)記録映画は、ウナックサロンから出ているビデオを、加藤力君から学生の終わりがけの頃にダビングさせてもらい、私も見ています。では、あの、映像の中で工藤さんにつっかかるように話していた若者群像の一人に、もしかしたら彦坂さんもいらっしゃったのかもしれないのですね。しかし、私はもしかしたらそうなんじゃないか、という気もなんとなくしていました。

75年のパリでの会食の風景は、目に浮かびます。私の体験とも重なるということもあり、立体的映像的に想像ができます。そうですね。工藤さんとは、そういうお茶目なしかけをよくする人だったと思います。が、入口は似ていたとしても、私の場合は、そのようなあっさりした付き合いで終わる性質のものではなかったように、振り返り思います。

実際に生身で接した期間は、私が芸大大学院・工藤研究室在籍中の89〜90年の2年間と,ごく短いにも関わらず、工藤さんの存在は私の中で、その後も長く尾を引きました。また、タイミングということもあります。

普通に言えば、私は大学を出て人生の本格的な門出をするべき次期。90年11月12日、その日は現在の天皇の即位の礼の日だったようです。私はそれほど興味がなく、文京区千駄木のアパートでテレビ映像を通して、ああ今日がそうなんだ位の気分で漫然と過ごしていました、その日の夜に研究室の助手から「豪、ごめん、工藤さん亡くなったよ。」との電話を受けた。助手が第一声、私に謝罪したのは、大学院の2年次に入ってからというもの、工藤さんが入院し病気療養中のため大学にはしばらく来れないとの情報を教官室からは得るのみで、続報もぱったり無く、その期間がけっこう長く続いたので、不審に思った研究室第2期生である私と、第3期生だった福士朋子さんが一緒に教官室に度々問い合わせに行ったということがありました。その折に助手からは「大丈夫、大丈夫。病気はそんなに大したことないらしいよ。」という返事しかもらえませんでした。しかし助手がなにも義務を怠ったということではおそらくなく、おそらく助手も、詳しい情報を工藤さん側から遮断されていたのではないかと私は推測します。しかし私は勘で、きっとそういうことではない筈だ・・と、感じるものが自分の中にあったからこそ、度々問い合わせに行ったのだと思います。

工藤さん没後、ウナックサロンからの依頼により、そこで定期刊行している小冊子において、研究室在籍1〜3回生の全9人に、作家工藤哲巳が大学での教師としてどうあったのかを、各人文章で証言して欲しいという依頼がきました。ほぼ全員がこの依頼に応えた中、私のみが、これには返答しませんでした。
後日、大学の帰り路にばったり会った、学部4年時の担任だった榎倉康二さんから、件の小冊子について問われ、書かなかった私に、「わざとか?」と、若干の笑みを含んでしかし真面目な口調で言われた記憶が今でも残っています。確かに、わざとかもしれないし、正直書けなかったから、かもしれません。
しかし、義務は勿論感じます。それこそ、今この彦坂さんのブログの他のコメント欄で議論されている、というよりは彦坂さんがほとんど単独で提起なさっている、公の問題ですね。思えば、工藤哲巳という美術作家の最後は、あまりにも不明瞭です。美術作家が公人であるという問題と、もう一つは芸大は勿論国立であるので、芸大創立120周年の記念事業の一部として、新たに創設された大学院第8研究室に誰を招聘するか?となされた議論の中で(その議論は、日本の黄金のバブル期のまさにピークの季節になされた筈です)、このさい刺激剤を注入しようとの意見の一致により、工藤哲巳が選ばれた、と聞いています。岡本太郎の名前も、その前には上がっていたとも。その第8研究室は現在、先端芸術学部を新たに創設する際の、予算の工面の必要の一部として消滅したと聞いています。空間が消えることに対し、私はあまり何も思わないのですが、歴史,その意味が問われず、黒塗りの状態のままにあることを私は望むものではありません。彦坂さんのブログを拝読していて、彦坂さんの歴史というものに対する真摯な態度を私は信頼するに値するものと、感じるに至りました。作家・工藤哲巳についての真摯な議論に、是非参加させてもらいたいと私は思っています。

私の側から提起可能なのは、72、73年頃に連作された『芸術家の肖像』あるいは『危機の中の芸術家の肖像』と題名が冠されたシリーズを、とりあえず俎上の中心に乗せてみてはどうかということです。彦坂さんの、工藤作品は6流のイラストであるという観点でまず、ずばっと切ってしまえば、いい意味での省略した議論が可能かとも思います。(立体ですが)そこに描かれているのは、鳥籠の中で年老いた芸術家が半ばより目になって筆で何かに綺麗な色を塗っている。よく見ればそれは糞便である、といったような情景。人間疎外論的な図式をできるだけ分かりやすくイラストで提示している作品。われわれ芸術家はまさに「世界をよくする」つまり「良い作品」を作り経済活動に奉仕する為だけに大きな全体のシステムに飼われた存在であると。そのようなアイロニー表現が出てくるのは、勿論、そうではない筈だという作家の本心背後にあるからです。

たとえば、このような導入ではどうでしょうか?
もしこれにコメントを彦坂さんが還してくだされば、(工藤さんから私が直接投げられた言葉の証言も交えて)、私もそれに答えていくことができます。

文章遡りますが、タイミング、ということでもう一つ。村上隆氏は科は違い,学年も2年ほど先輩でしたが、当時の学生であった私の視界には何かを始めようとしている姿として既に入っていました。

私は作家の会田誠、小沢剛と芸大油絵科で同級であり、私は彼らその他数名を束ねて,学内で『白黒』という同人誌を主宰していました。会田誠は主に漫画、また、トイレ覗きの実体験(=本人の話によると、逮捕歴もあるそうです)を短歌に詠んだものや女装写真などを、私は小説や宣言文など、また小沢剛の地蔵建立の写真のシリーズも、この『白黒』という同人誌に掲載するところから始まっています。紙代・インク代を自分達持ちの約束で、大学の印刷機を使わせてもらっていましたので、顧問という形に、榎倉さんになってもらい、その他いろいろと迷惑もかけ、たいへんお世話になりました。

このメンバーで学内展示も開催し、タイトルが『団結小屋』(私がのちの95年に参加した世田谷美術館での長谷川祐子氏・企画『デ・ジェンダリズム』展のカタログの英文履歴欄には"Unity in a Hut"としてもらっています。)

この『団結小屋』展を見た榎倉さんが「お前らいいよ、このメンバーでやれよ」とわれわれを強く後押ししてくれ、工藤さんも剣菱を二本携えて初日に来てくれるなど、われわれは皆たぶんそのようなまわりの反応に気をよくしていたのですが、結局私の卒業式の日の宣言により、このグループは解散しました。この切断の意味を、今でも考えています。すべては切断の中にある,そのような気がしているのです。

90年〜91年。私たちの、その地点での表現者としてのスタンスは、一体どのようなものだったのかを考えます。言葉にすれば、一体「何」によってわれわれは群れとしてかろうじて繋がっていたのか?と。今分かるのは、その「」に当てはまるのは「アイロニー」ではないかと思います。
題名『団結小屋』とは、勿論アイロニーでした。たしか、会田の作品集の中に、この時皆で作ったポスターの写真が載っていたと思います。私が中央に団結小屋と毛筆し、他のみながその回りにイラストを寄せ書きのように配置しました。鉄塔の先端に、小屋がついているような、漫画です。幼児に、カラーテレビで見たニュース映像のイメージが(モノクロのサインペンにより)ここでは再現しているのです。われわれは高級な芸術の意味なども分からず、ただそういうものが既に失効したという空気だけを「読ん」で、あるかどうかも分からない架空の「本物」を上から、または下から?眺め下ろしせせら笑うことで、過去の歴史の優位に立とうとしていたのではないのだろうか。彦坂さんは、そのような現代の態度のありかた全体を称して、婆娑羅と呼んだのではないかと私は考えています。これについても、今後さらに考えていきたいと思っていますので、意見交換させていただければ幸いです。

by 彦坂様 (2010-12-20 22:04) 

加藤豪

上の文、敬称を略して送信してしまい、失礼しました。
(自分の名前欄に、間違って書いてしまっていました。)
by 加藤豪 (2010-12-20 22:13) 

ヒコ

加藤豪様
長いコメントありがとうございました。
工藤哲己さんについては、私も検討してみたいと思っていましたので、近日中にできれば、ブログを一本たてて、いただいたメールに対応したいと思います。
by ヒコ (2010-12-24 02:10) 

加藤豪

彦坂様
お忙しい中、ご返答をありがとうございます。工藤哲巳作品についての論考、拝読できるのを楽しみにしております。
最近の彦坂さんの「原芸術」に的を絞りつつあるという議論の内容にも私は大変興味があります。またコメントを書かせていただきます。
by 加藤豪 (2010-12-28 23:26) 

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