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検閲と禁忌 [アート論]

某氏より次のようなメールをいただいた。

彦坂様


糸崎さんの作品の優れている比較

◎◎さんを、とりあげてますが、

なぜ、それほど知られた写真家でもなく、糸崎さんの友人でもある彼女をわざわざ

比較例に挙げるのでしょうか?

ああいう写真家は他にもたくさんいます。




もちろん彼女は発表している作家ですから

批判も当然うけてしかるべきだというのは、わかります。


彼女の古い友人として、また、彦坂さんと知り合わせるきっかけをつくった立場としては、大変気が重く、心配です。

彼女は強がりをみせてますが、非常に不安定で脆く、面倒な人です。以前心身症で会社をやめてますし、鬱っぽいことも多々あります。写真に打ちこむことでやっとまえ向きな姿勢に、なれたところがあります。


理不尽な御願をうけてくださるとは思いませんが

できれば彼女の部分を除いて

いただき

とるにたらない作家として、

放っておいていただきたいと

切に願います。


最近自分の回りに、自殺に関することが多く

最悪の場合を想像すると、眠れぬ思いです。 



■■


個人メールをくださった■■氏は困った人だなと思いました。正当な要請とは思わなかったですが、記事は削除しました。こういうことは《検閲》であります。このことの重大性というものを、この個人メールをくれた■■氏は、理解出来ないのでしょう。そしてまた、作家は実は批判されて自殺するという事などは無い存在であるという事を理解していないのです。


実例として、批評で批判されてから自殺した作家をあげてみてください。私はそのように自殺した作家を知りません。作家というものは、外部からの批判で自殺するようなものではないのです。


それに、もしも◎◎氏が本当に自殺してしまったとしても、それは今日の日本の自殺者3万3000人分の1に過ぎない訳で、この多数の自殺者に対して誰も関与し得ないように、◎◎氏の死に関しても◎◎氏の自己責任であって、何人も関与はし得ないのです。作家というのは、自分の名前を出して社会的な責任を取っている存在ですから、その作家の自殺への危惧から、それをもって批評の自由を抑圧する事は、よけいなおせっかいであり、お門違いの事なのです。


ですから、もちろんこのような検閲を拒否し、削除をしないというのも、私の選び得る態度ですが、実際に削除を受け入れたのは、こういう要請をしてくる■■氏の、あまりに直接に生きている、その人生の苦しみの感覚に対して、私が答えようとしたからです。


作家の◎◎氏に対しても「とるにたらない作家として、放っておいていただきたい」と、たいへんに失礼なことを■■氏は書いている訳で、困った人だと思います。基本的な作家倫理や、他の作家に対する敬意の道徳心がないのです。


こういう疑心暗鬼で、実際の世間が動いている事は確かですが、これでは作家という存在ではありません。あまりにも人間的すぎるのです。ニーチェは『人間的な、あまりに人間的な』の中で、つぎのように書いています。


同情するものは自分は強者であると信じている。だから助けることができるとあらば、すぐにでも介入したくなる。


十分に自分自身を支配する力がなく、絶えざる自己支配・自己克服としての道徳を知らない人は、無意識のうちに善良で同情的な情動の崇拝者になってしまう。





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狩野恵輔

この方は”取るに足らない作家として”と書かれているではないですか。”彦坂さんがこの作家を取るに足らない作家だと考える”のであれば、どうか通り過ぎていただけないでしょうか、と言っているのです。書いた方自身が”取るに足らない作家と思っている”のとは違うでしょう。彼等の人間関係さえ複雑にしかねない危険な誤読と感じます。

検閲、批評に関しては意見はありません。
by 狩野恵輔 (2010-12-18 08:13) 

NO NAME

ここに「糸崎さん」と名前が挙げられている以上、ぼくは当事者ですから、黙っているわけにはいきませんねw・・・
しかしコメントを書くのにはちょっと時間が掛かるので、しばしお待ちいただければと思います。
by NO NAME (2010-12-18 12:05) 

nazonazo

芸術にかぶれるのも結構ですが、はじめに「人の道」ありきではないでしょうか?
「人の道」「人情」を学習してください。
by nazonazo (2010-12-18 17:11) 

糸崎

先ほどは名前を書くのを忘れてしまいましたが、とりあえず当事者のひとりとして一言・・・といっても長いですがw

まず、彦坂さんがおっしゃる「困った人だなと思いました」というのは、一般的には彦坂さんにも当てはまりますね・・・
削除された記事のように「一方を褒めるために一方を貶す」というのは批判の方法のひとつだとしても、これを身近な人間で行うことは、少なくとも現代の日本では常識的ではありません。
そういうことをされると貶された相手も困るし、褒められたぼくも困るし、人間関係が壊れかねません。
まぁ、こういうことは彦坂尚嘉さんと関わってるとたびたび起きることで、ぼくとしてはとりあえず「笑っちゃうしかない」のですw

そのように彦坂尚嘉というアーティストは、本人が認めるように常識から外れたキチガイじみたところがあり、その点は多くの人に認識されているのではないかと思います。
だから今さら彦坂さんが非常識なことを書いたからと言って、彦坂さんをよく知る人が「削除依頼」をするというのはどうも大袈裟で、ぼくとの関係も含めかえって自体が悪くなるような気がします。

これは一般論ですが、事態を深刻に受け止めすぎると、実際に深刻な方向へ向かい良くない結果に至ることがあります。
この件に関して、彦坂さんは当事者の名前を隠す「配慮」をされてますが、ぼくの判断では名前を隠して語るほど深刻な問題ではないでしょう。
ですので以後、名前を出して話を進めます(どうせ読者にはバレバレだし、責任は・・・ぼくが取りますw)。

ということで、彦坂さんに「削除依頼」のメールをした白濱雅也さんは、どうも問題を深刻に捉えすぎていると思います。
端的に言えば、彦坂さんにブログで批判されたアーティストは多くいるし、ぼくにもその経験があるのです。
彦坂さんは、そのように攻撃的で困った人だと言うことは、ブログの読者なら誰でも知っています。
しかも、褒めるにしろ貶すにしろ、独自の「格付け」や「言語判定法」など、独自すぎる概念により説明するので、誰もその内容を理解できません。

ですからこのブログの読者で、彦坂さんの批判を真に受けて、即「あのアーティストはダメなんだ」だと思う人は、ほとんどいないのではないかと思います。
また、彦坂さんに批判されたアーティストの多くは、彦坂さんの言うことを「真に受けない」「聞き流す」「無視する」という風に対処しています。
彦坂さんの批判に対し、意味が分からなければ反論も反省もしようがないのです。

彦坂さんがどういう基準で他人の作品をほめたり貶したりするのか、たいていの人には理解できないし、予測できません。
ぼくにしたって、自分が褒められたり貶されたりする理由を、きちんと理解できないでいます。
ですからブログで突然批判されたアーティストは「犬に噛まれた」ぐらいに思えば良いんじゃないかと思いますw

いや実は、彦坂さんに批判されたあげく離れていったアーティストはみな、有名になったり売れっ子になったりしてるのです。
ですから、「彦坂ブログで批判されたアーティストは売れるようになる」という縁起物として考えると良いかも知れませんw
これは半ば冗談ですが、深刻に勘ぐるよりも、勘ぐるなら前向きの方が良い、と最近のぼくは思ってるのです。

ぼくの「写真」の引き合いに出された門井幸子さんにしても、批判的に取り上げられれば多くの人に興味を持たれ、検索件数もアップするでしょう。
実際、ぼくが見たところ、門井さんの写真はぼくの写真に何ら劣るところはなく、多くの人にもそう思えるのではないかと思います。

褒められた方のぼくが、貶された方の門井さんをフォローするのは普通に考えると不遜だしかなり困った気分ですが、その意味でぼくは門井さん以上の苦境に立たされているのですw
が、あえて言うと彦坂さんはぼくに対し「明らかに劣る作品」として門井さんを取り上げたわけではなく、その意味で彦坂さんの門井さんへの評価は決して低いようには思えません。

ただ、二人の作品を並べて論じられると、門井さんはもちろんぼくも非常に困ったことになってしまって、こう言うのはとりあえず「笑うしかない」とぼくは思ってしまうわけですw
それを白濱さんが深刻に受け止められるのは「親切心」で、その気持ちは大切だと思いますが、それだと当事者のひとりとしてぼくの方が困ってしまいます。

困った事態が起きたとき、それを深刻に受け止めると、困った状態がさらに深刻になりがちです。
しかし困った自分を、一方で笑ってしまうと、「困った自分」と「それを笑う自分」に分裂し、さらに「客観的な自分」が生じます。
「自分」を分割し、状況を客観的に把握できれば、自体を良くするための具体策が見えてきます。

ところが「困った自分」を「ひとつの自分」のままにしておくと、やがて「自分」がつぶれてしまいます。
例えば、作品に自分の全てを懸け、その作品が否定されたら自殺したくなるような「自分」というのは「ひとつの自分」であり、そう言う自分のあり方は危険です。
「自分」を分割させる、というと難しいようですが、ともかく「笑っちゃう」ことは重要で、笑えば対処法が見えてくるし、深刻になるとどんどんつぶれていく・・・ということだと思うのです。

ぼくにしてもかつて彦坂さんに突然批判記事を取り上げられショックを受けたことがありますが、深刻に受け止める気持ちを「笑い」と「好奇心」に転じて楽しむことにしたのです。
今回の「反ー反写真」にしても、彦坂さんに自分の分からない理由でべた褒めされ、それだけに今後は自分の分からない理由により評価が一転する可能性もあり、そう言う「不条理」を楽しんでいるのですw

以上、他にも書くべきことはあるような気がしますが、とりあえずはこのへんで。
by 糸崎 (2010-12-18 20:14) 

ヒコ

狩野恵輔様

コメントありがとうございます。私は◎◎さんの作品を魅力的だと思っています。個展も見ていますし、作品集も購入しています。つまり評価しているのです。

今回申し上げたのは、その作品が「モノクロのいわゆる芸術写真」のスタイルと取っているにもかかわらず、その魅力はジェフクーンズにつながるような大衆芸術の魅力であると分析したのです。

そしてまた、糸崎公朗さんのフォトモは、大衆芸術であるにも関わらす、「モノクロのいわゆる芸術写真」のスタイルを意識的にシュミレーションしたときに、《原-芸術》性をもった芸術作品になってしまっているということを示したのです。

両方ともに、「モノクロのいわゆる芸術作品」のスタイルをとりながら、平行する別のタイプの芸術になっているという芸術分析を示しているのです。

私自身は、大衆芸術と、高尚な芸術を、別のものとして分析しますが、しかし大衆芸術を低いものとしておとしめるということを機械的にはやっていません。

ですので、一方的に芸術分析や批評に対して、通常の常識的な普通人の反応をされると、沈黙するしかなくなります。私は普通人の表現を芸術分析して個人名を出しているのではありません。

彦坂尚嘉は、あくまでも公人としての芸術家を問題にしているのです。◎◎さんは『KADOI SACHIKO:PHOTOGRAPHS 2003-2008 』という写真集を、蒼穹舎より、実名の門井幸子で出版している写真家なのです。amazonでもあつかっていて、買う事ができます。
http://www.amazon.co.jp/KADOI-SACHIKO-PHOTOGRAPHS-2003-2008-門井幸子/dp/4904120035/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1292692436&sr=8-1
こういう写真家は、普通の人ではありません。普通の人は写真集を出版はしないのです。出版という行為が社会的なものである以上、写真集を出版した芸術家は私人ではなくて、公人であると私は思います。

芸術家=写真家が、自分の名前を明示して、社会に問いかけている場合、それに対する芸術分析や批評行為は、私が青春を過ごした過去の時代では、普通にあったのです。

たとえば滝口修造は、篠原有司男氏の作品に対する批判を、読売新聞紙上に書いています。この事は篠原氏の著書『前衛の道』 に書かれていたと記憶しています。

あるいは夏目漱石は、美術批評で、実名をあげて、その作品を「見悪(みにく)い」と書いています。念のために引用しておきます。

「例えば吉田博氏の生々しい紫と、明るい緑、それから茶がかった黄の様なもので、自然の配置した色彩の中に、是等が自分の癖で知らず知らす潜り込んで統一を妨げるのは見悪(みにく)い」(「太平洋画会」『夏目漱石全集』第16巻 岩波書店1995年、373頁)

彦坂尚嘉の教養と常識では、芸術作品に対する分析と、批評は、近代社会の中では、公共の利益に合致するものとして容認されてきた文化活動であると認識しております。

今日の情報化社会においては、こうした活動が非社会的な、あるいは反社会的な犯罪活動、あるいは作家の名誉を犯す名誉毀損罪にあたるというのであれば、それは私の考えとは違うので、有罪になろうとも、批評が、正当な社会行為であると主張して戦わざるを得ません。

にもかかわらず、私が■■氏の検閲と、削除の申し入れを拒否しなかったのは、その文章が指し示すモラルを欠いた生々しさでした。すでに書いているようにニーチェが言う所のあまりにも人間的すぎるものであったのです。

こういう感覚は、今日の東浩紀氏の『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』が言う所の動物化した人間でありすぎるのです。私の飼っていた大型犬のラブラドールが、ニーチェや篠原有司男氏の著作、さらには夏目漱石も読まなかったように、たぶん今日のマイクロポップ化したアーティストである■■氏というのは動物化していて、教養も無くて、批評という事の意味も分からなくなっているという風に、私には思えます。

その言辞は、あまりにも下町の人情をなぞっているのです。『男はつらいよ』の寅さんのようなベタベタとした、おためごかしの「良い人」を演じているのです。その真剣さと、その偽善さに、私は動かされたのです。ここまで書くのなら、■■氏の欲望をコピーしてみようと考えたのです。

私はこの■■氏である、白濱雅也さんという人を、尊敬もしているし、評価もしているのです。その人が、ここまで書いて検閲と削除を要求してくるのならば、それを受け入れてあげようと思ったのです。しかし私の記事を読んでくださっている人々という公的な存在に向けて、事態を説明する必要があります。今日の情報化社会においては、情報公開が重要なのです。それに■■氏のメールは、公開されているブログの記事の検閲と削除ですから、これは私的なメールではなくて、公的性を持ったメールです。

つまり私のブログの活動は、写真集の刊行と同様に公的な活動であって、その検閲と削除の要求もまた、読者への信頼に関わるものですから、公的な性格を有するのです。ですから私は、公的なメールであると判断してオープンにしたのです。

にもかかわらず、匿名にしたのは、メールを出した■■氏のあまりの人間的なベタベタさを思っての配慮です。

つまり私の行為は、何重にも錯綜した複雑なものなのです。

by ヒコ (2010-12-19 03:12) 

ヒコ

nazonazo様

コメントをありがとうございます。人の道というのは、アーティストにはありません。たとえば歌舞伎役者ですが、これは昔、河原ものと言われていて、分かりやすく言えば人非人です。「親の死にめに会えない」存在であったのです。アーティストは普通の人間ではないのです。ですから私は自分を「人の道」を歩んでいるものとは思いません。人間の外に出ているのです。アーティストは人間ではないのです。少なくとも彦坂尚嘉の学んできた教養においては、そのように考えています。

しかし■■氏は、人間であったのです。だから削除要求を、私は飲んだのです。その錯綜した感覚をご理解いただけないでしょうが、人非人である私は、普通の人間を尊重しているのです。
by ヒコ (2010-12-19 03:19) 

ヒコ


糸崎公朗様

長文のコメントありがとうございます。

すでに書きましたように、私は◎◎さんの作品を評価してきました。ですから、批評や批判というのは、実は純粋な芸術分析であるのです。私はすでに述べているように、糸崎さんの作品は、あくまでもシュミレーショニズムの作品であって、分かりやすく言えば、意図的な作り物なのです。その事は示してきています。そこに《原-芸術》が出現してくるということを指摘しているのです。

一方の◎◎さんの作品の魅力は、実は芸術写真のクリシェイな構造ではなくて、実体的で、直接性をもった大衆芸術の性格なのではないのか? という指摘なのです。つまりもっと直裁な表現が、より正直な門井幸子写真の開花を生み出すのではないのか? という予感を込めて、ジェフ・クーンズをあげながら書いたつもりでした。

しかし■■さんは、全く別の視点から私の芸術分析を読んだのです。この場合、私の授業に出て、私の欲望論を知っている人には分かると思いますが、「他人の欲望をコピーする」ということが、人間関係を形成する上で重要なのです。ですから私は削除して欲しいという■■さんさんの欲望をコピーしたのです。以下が私のメールです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■■様

今、帰ってきました。
メール拝読しました。
■■さんのお気持ちは分かりますし、
■■さんの依頼ですので、ご希望には添いたいとは思います。


彦坂

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このメールに関して、■■さんからは、次のような返信がありました。


彦坂さま

ご配慮誠にありがとうございます。
感謝します。
◎◎さんが写真にとりくんで元気になるまでずいぶん長い時間がかかり、
私を含めまわりが相談に乗ったりはげましたり、協力したりしました。
そういう経緯なので、本人はともかく
私は
自己満足でもかまわないと思っています。

ありがとうございます。
■■

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、糸崎さんのコメントで、事実に反する事があります。
私の芸術論や芸術分析を含む私の主張は、決して多くの人に分からないものではないのです。

先日の国立東京近代美術館での麻生三郎展をめぐる建築系美術ラジオの収録でも、
学芸員の大谷 省吾さん、藤原えりみ氏を交えた収録でも、私の意見はこれらの人々に理解されていたのです。

この収録には7人の人間がいましたが、麻生三郎の芸術を理解出来ないと主張していたのは糸崎公朗さんただ1人であったのです。もう忘れているのかもしれませんが、国立近代美術館といった美術の専門家の領域で、孤立しているのは糸崎さんであって、彦坂尚嘉ではないのです。

少なくとも、美術史化されている古い美術を巡っても芸術分析や批評は、彦坂のものはオーソドックスであります。その教養は日本の国宝や重要文化財の美術を中学生の時から目で暗記して形成されてきたものであって、糸崎さんが言うような気違いじみたものではないのです。美学者の谷川渥氏や、美術史家の富井玲子氏も、彦坂はオーソドックスだと言っておられました。先日の立教大学での比較文明学会でも、文芸評論家で立教大学教授の千石英世氏や、思想史家の林みどり教授と親しく歓談しましたが、私の芸術論は共感をもって聞かれていたのであって、知的な教養のある人々から孤立するものではありません。

日本の現代アートそのものは、実は少しおかしいのであって、アメリカを含む世界の趨勢とはずれています。この場合、アメリカを全く外して、アジアやアフリカの現代アートを中心にすえた常識を形成すれば、彦坂の言う事は時代遅れと言えます。が、アメリカのアーティストを含んで議論すれが、彦坂の言っている事を単純にキチガイとは言えないのです。

デュシャンをめぐる糸崎さんとの応酬にしても、フィラデルフィア美術館のデュシャンコレクションを1度も見ないで語る糸崎さんと、フィラデルフィア美術館のデュシャンコレクションを1年も滞在して見てきている彦坂とでは、どちらが正当な手続きを取っているかは明らかであって、彦坂は、とにかくまじめに美術に取り組んできているのであって、美術家としてはきわめて真っ当なのです。

アカデミズムを含む芸術界で見れば、正当で高尚な芸術作品を見てきているのは彦坂尚嘉であって、糸崎さんではないのです。糸崎さんは、芸術に対して無知無能な日本の大衆に近い存在であるのであって、その逆の立場にはいないのです。

しかし私は、街歩きや、昆虫を凝視する糸崎公朗さんを尊敬し、尊重しています。評価して「いるからこそ建築系美術ラジオにお誘いし、その独自の意見を述べていただく事をお願いしています。つまり私は、高尚な芸術を分からない多くの人々や糸崎公朗さんを無視しているのではなくて、尊敬し尊重しているのです。

「芸術が分からない」ということは重要な事なのです。このことが大地であり、海なのです。日本の大衆という無知無理解の海の中に、私たちはいるのです。ブラジルやアメリカや、イギリスや、フランスの大衆と比較しても、桁外れに芸術に対して教養の無い日本の大衆! この芸術に対する無理解こそが、私たちの本体であり、重要な母体なのです。私は糸崎さんが芸術が分かるようになるとは思っていませんが、しかし作る事は出来たのです。この事が真理を示しています。まさにそういうものが芸術なのです。つまり芸術は理解は、出来ないものなのですが、作り出せるものなのです。なぜなら世界を作りし神との、人間のなし得る唯一の格闘の領域だからです。神と盲目的に戦う事。神と盲目的に戦う者だけが見る事の出来る真理が、芸術なのです。それは、誰も理解はし得ないものなのです。それは人間の死を理解出来ないのと同様なのです。なぜに人間は確実に無意味に死ぬのか? この問いの前に芸術は立っているのです。

by ヒコ (2010-12-19 04:28) 

nazonazo

返信はご拝読いたしました。
アーティスト=人非人
とは古い価値観と思いました。
「私は人非人である」と勝手に宣言なさるのはご本人の自由ですが、
現在のように諸諸複雑化している折、ただの河原乞食には芸術は無理になっているのではないでしょうか?
これからの芸術は世界を救済する可能性すら内包するものです。
非人格者では、そうしたこれから世界を動かすような芸術はなせないし、第一、自らを人非人とは考えない作家も多数存在すると思いますので、主観に凝り固まったものいいでは世の中を動かせないし、そのような作家さんを例にとって「人非人」なのだから何をいってもいいと決めつけるの危険かと思います。
by nazonazo (2010-12-19 17:36) 

ヒコ

nazonazo様
コメントありがとうございます。

ご意見は正しいでしょうね。

昔の話で恐縮ですが、歌舞伎役者も一部の例外はあるにしろ、きちんとした社会人になって、上流階級のための《第一次元 社会的理性領域》の上演をするようになったのが明治期の歌舞伎の近代化でした。これで歌舞伎は、私はつまらなくなったと思います。その中で文楽は、近代化される事無く、危ない表現を維持していて、今日でも面白いのです。

何を言いたいかと言えば、おっしゃるように、芸術は、明治以降は河原乞食では無理になったのです。私もそう思います。ご指摘は正しいのです。

情報革命が進む現代においては、河原乞食などというものは、どこにもいなくて、いるのはブルーシートのホームレスと、年間3万3000人の自殺者と、同じ数の無縁死の人々の遺体なのです。

こういう時代に現代アーティストは、おっしゃるように社会化してデザインナーとして、歌舞伎のようにつまらないものになったのです。

現代のアーティストは、謎謎さんのおっしゃるように「世の中を動かす」ものになっていると思います。

村上隆さんや、奈良美知さんの活動で、確かに日本社会は良くなっています。

この二人を代表とするような今日の若いアーティストによって、世界金融危機によって不安定化している世界経済は救済されるでしょう。

日本の経済も、日本の政治の劣化も、若いアーティストによって良くなっていくと思います。

中国の軍事的増強に対する脅威も、アーティスとの力で守られるでしょう。

私も、そうしたアートの力を望んでいます。

私自身も2000年から2009年まで、4回にわたる越後妻有トリエンナーレに参加して、日本の地方の疲弊を救うために、微力ながら尽力をして参りました。

次の日本の首相には、アーティストを選ぶべきであると私も思います。民主党に代わるアーティスト党を作るべきでしょうね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私自身は、古いですから、ボードレールが好きです。近代美術批評の根幹を形成したのは彼でした。そして「悪の華」の詩人でもあります。

 祝福

弥高い天なる力の、特に命ずるところによって、
《詩人》が、倦怠に悩むこの世に現れ出るとき、
その母親は、おそれおののき、冒涜を胸に湛えて、
拳をわなわなと振るわせる、憐れみ給う神に向かって。


私は、過去においては普通であった批評と芸術分析をしていると思っているのです。

まあしかし、謎謎さんには、無意味なものであると思います。古すぎるのです。わたしもそう思います。
by ヒコ (2010-12-20 03:40) 

nazonazo

hikosaka様

大変真面目な、力の入ったご意見恐縮でございます。
お忙しいと存じますのでとくに返しのコメントを求めませんが、私の思うところ、以下の部分は明らかに間違いかと思います。

>村上隆さんや、奈良美知さんの活動で、確かに日本社会は良くなってい>ます。

>この二人を代表とするような今日の若いアーティストによって、世界金融>危機によって不安定化している世界経済は救済されるでしょう。

>日本の経済も、日本の政治の劣化も、若いアーティストによって良くなっ>ていくと思います。

>中国の軍事的増強に対する脅威も、アーティスとの力で守られるでしょ>う。

イロニーとして受け止めますのでよろしくお願いします。


by nazonazo (2010-12-20 12:35) 

ヒコ

nazonazo様

確かにアイロニーなのですが、若い人々に、日本の活力を回復してもらいたいという願いは、正直なものです。新しいグローバルな世界に展開出来る力を、日本国内にも折り返してもらいたいと思います。
by ヒコ (2010-12-20 14:51) 

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